「御国の柱礎」「大現神天皇の稜威」――静岡の名門校で歌われていた「皇室賛美」校歌がたどった運命とは?
校歌斉唱の目的のひとつは「愛校心」を高めることですが、戦前の日本では、それ以上に「愛国心」を養うことを重視する傾向があり、歌詞の中に「忠君愛国」的な文言が含まれていることは珍しくありませんでした。
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ところが、太平洋戦争の敗北によって、そのような校歌は歌詞の変更を余儀なくされていきます。音楽社会史を専門とする東京大学名誉教授の渡辺裕氏は、新刊『校歌斉唱! 日本人が育んだ学校文化の謎』(新潮選書)(新潮選書)において、この校歌の「戦後処理」という問題を取り上げています。同書から一部再編集してお届けします。
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第2次大戦の敗戦は、明治以来、近代国家としての日本という国を支えてきた前提そのものを否応なしに問い直さざるをえないような状況をもたらしました。それゆえ、その影響が文化のあらゆる領域にまで及んだのは当然といえば当然のことだったわけですが、まさにそのような近代化の所産であった校歌の場合には影響はかなり深刻でした。特に大きな要因はふたつあります。
ひとつは歌詞の問題です。天皇への忠誠を誓ったり、そのために精進して国の繁栄のために役立てる人間になる心意気を述べたりする内容の歌詞が含まれている校歌がかなりあり、それらをどうするかが問題になったのです。
それまで、唱歌教育が「国民づくり」のツールとして、そのような国民としての自覚を児童・生徒に植え付ける目的で構想された、その延長線上に校歌も位置付けられていました。そのため、学校や郷土に関わる歌詞だけでなく、日本という国やその中心たる天皇に関わる歌詞が歌い込まれることになったのです。
しかし敗戦を機に価値観が百八十度転換し、そのような皇国史観的な前提自体が解体してしまったわけですから、そのような歌詞の校歌をそのまま歌い続けていてよいものかということが当然問題になったわけです。
新憲法の精神に反する歌詞
たとえば、神奈川県立横浜平沼高等学校(旧横浜第一高等女学校)の校歌(1916年制定、佐佐木信綱作詞、幸田延作曲)は冒頭いきなり
をしへの道のみことのり われらが日々のをしへなり
とはじまっていました。
「をしへの道のみことのり」とは、言うまでもなく教育勅語のことです。
1890(明治23)年に発表されて以来、教育勅語は、日本における教育活動の最高原理として位置付けられていましたから、それを手本にして毎日励むことを誓う内容の歌詞は、かつては校歌の模範的なモデルになりえたのでしょうが、なにしろ戦後になって当の教育勅語自体が新憲法の精神に反するものとして無効になってしまったのですから、そのような歌詞をそのまま歌い続けるというわけにはいかなくなりました。
横浜平沼高校では1950(昭和25)年に、作詞者であった佐佐木信綱に歌詞の改訂を依頼し、その部分は
学びの道にいそしむは 我等が日々のつとめなり
と改められました。
「義勇奉公」をうたう第2節
もうひとつ、静岡県立静岡高等学校(旧静岡中学校)の校歌の事例もご紹介しておきましょう。静岡中学校の校歌は、1916(大正5)年に東京音楽学校の吉丸一昌に作詞を、島崎赤太郎に作曲を依頼して制定されたものでした。
もともとは第4節まであったのですが、第2節には「義勇奉公」などという語が登場し、第4節にいたっては
御国の柱礎と なりし祖先の後継ぎて 大現神天皇の 稜威を四方に輝かせ
と、皇室賛美を絵に描いたような歌詞になっていたため、第2節以降は歌わないことにして、第1節だけを2回繰り返して歌うことになりました。
ほかにも第1節冒頭の「岳南健児七百の」という歌詞が、生徒数の増加に合わせて「岳南健児一千の」と改められるなどの変更も行われていますが、当時の教員の回想によると、別に職員会議などの席上で正式決定した記憶はないということです。
学校によって異なった対応
このような形で歌詞の特に「あぶない」部分だけを書き換えたり、そういう部分をそっくり歌わないことにしたりするといった措置をほどこした学校はかなりありました。
もちろんこのような処理は弥縫策であると言われればその通りで、もともと歌詞は全体としてひとつの表現になっているわけですから、単語ひとつを変えればすむというものではありませんし、歌詞の一部だけ変えてしまうというのは作詞者に対して失礼だという議論だってあるでしょう。
特に変更を必要とする部分が大きいような場合には、いっそのことこれを機会に校歌を新しいものに作り変えようという話になって当然ですし、そうなれば、新たな時代にふさわしい校歌はどのようなものであるべきかといった根本的な問題から考え直してゆく必要も出てくるでしょう。
そのあたりの対応の仕方は学校によってもかなり異なっており、静岡高校のように特段の議論をすることもなく事務的な変更ですませてしまったような学校もあれば、かなり大きな議論に発展した学校もありました。
※本記事は、渡辺裕『校歌斉唱! 日本人が育んだ学校文化の謎』(新潮選書)の一部を再編集して作成したものです。