「日本は遅れてしまった」「もっと細かい技も研究を」…フランス柔道の育ての親「粟津正蔵」が2015年に残していた苦言

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フランス人は私を尊敬してくれた

 粟津は他界した父の死に目に会えなかったが、パリではひ孫を含めた一族に囲まれて幸せに暮らしていた。ひとり息子の浩三さんは建築家、孫娘たちは産婦人科医や弁護士。民枝さんはその昔、毎晩氷点下の中で乳飲み子を抱え、夫に食事を届ける毎日だったそうだ。

「息子は建築関係の学校で成績が一番でした。友達の親が親切にアドバイスしてくれました。主人が尊敬されているから辛いことはひとつもなかった」(民枝さん)

 粟津も「フランス人に人種差別のようなのはなく、私を尊敬してくれた」と感謝も口にしていた。子供の頃に出会った医師、職場にいた川石酒造之助の妹、パリ赴任後の交代要員の思わぬ帰国……多くの偶然が重なり、粟津は生涯、柔道指導者としてパリで生き抜いた。

「人間の運命とは不思議なものですよ。フランス語も下手ですから不安を考えたらきりがない。でも海外で生活するのは朗らかに生きることが大事なんですよ」(粟津)

2015年に残していた「苦言」

 粟津への取材は、日本が金メダル1つと惨敗したロンドン五輪(2012年)の3年後。そのせいか、粟津の祖国への苦言は尽きず、寝技の軽視も指摘していた。テレビ映えがする華やかな立ち技が主体となり、地味な寝技の攻防になると審判がすぐに両者を立たせていた時代である。

「フランスは連盟のライセンス制がしっかりしていて、国家資格を取って指導者になります。このシステムで柔道人口が増えている。日本は遅れてしまった。技術面でも、日本のコーチはパリ国際などでもっと細かい技も研究せないかん。今のままでは『日本人は寝技を知らんのか』と思われる。高専柔道のような粘りが要る。小技を研究して攻撃しまくらなくてはいけない。そして、女子柔道にもっと敬意を払わなくてはならない」(粟津)

 数年前にルールが変わり、審判が寝技を続けさせるようになると、東京五輪(2021年)とパリ五輪では、寝技で決まる試合が格段に増えた。男女問わず外国人同士の試合でも、レベルの高い寝技が目を引く。

 パリ五輪での柔道フランス代表は、混合団体で金、個人では金1つ、銀2つ、銅6つ。日本代表は混合団体で銀、個人では金3つ、銀1つ、銅3つ。1964年の東京五輪で、「日本の柔道が負けるわけはない」と信じていた国民が衝撃を受けた時、粟津は「これで柔道が国際的になる」と感じた。日本が敗れたパリ五輪の混合団体戦も、世界で柔道が盛り上がり続ける流れを後押しするかもしれない。

 祖国を離れて懸命に育ててきたフランス柔道が今、大輪の花を咲かせ、さらに寝技が復権した。粟津は異国の草葉の陰で目を細めているはずだ。

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フランス柔道を育てながらも、日本柔道への愛を抱き続けた粟津。第1回【フランス柔道の育ての親「粟津正蔵」が語った、64年東京五輪・無差別級の“日本敗北” 「誰をぶつけても勝てなかった」】では、激動の人生やフランス代表コーチとして参加した64年の東京五輪などについて語っている。

粟野仁雄(あわの・まさお)
ジャーナリスト。1956年、兵庫県生まれ。大阪大学文学部を卒業。2001年まで共同通信記者。著書に「サハリンに残されて」(三一書房)、「警察の犯罪――鹿児島県警・志布志事件」(ワック)、「検察に、殺される」(ベスト新書)、「ルポ 原発難民」(潮出版社)、「アスベスト禍」(集英社新書)など。

デイリー新潮編集部

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