「日本は遅れてしまった」「もっと細かい技も研究を」…フランス柔道の育ての親「粟津正蔵」が2015年に残していた苦言

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第1回【フランス柔道の育ての親「粟津正蔵」が語った、64年東京五輪・無差別級の“日本敗北” 「誰をぶつけても勝てなかった」】の続き

 日本の4倍もの柔道人口があるとされるフランス。パリ五輪でも注目され、テディ・リネールが男子100キロ超級で3度目の金メダルに輝いた日は、マクロン大統領も会場に駆け付けるほどだった。そんなフランス柔道の礎を築き、“育ての親”と慕われる日本人といえば粟津正蔵である。亡くなる前年の2015年、当時92歳だった粟津がパリ郊外の自宅で語った柔道人生と「日本柔道への苦言」とは。【ジャーナリスト/粟野仁雄】

(全2回の第2回)

言葉はいらない

 フランスにおける茶道や華道など日本文化への関心は、上流階級を中心とした流れだった。その彼らの間で、柔道は護身術のような位置づけで広まっていた。

「フランス柔道連盟の初代会長、ポール・ボネ=モリ氏はキュリー研究所の理学部長。フランスでの柔道は知識階級のスポーツで、腕力自慢だけの乱暴者の競技ではなかった」

 パリに戻った粟津は川石と二人三脚で指導にあたった。

「川石先生は『川石メソッド』という独自のわかりやすい柔道を発案しました。上達に応じて様々な色の帯を用意し、技に番号をつけるユニークな指導でフランス人に受けた。講道館から派遣された男は川石さんと合わず、私は板挟みで苦労しました」

 粟津は指導中も寡黙だった。「柔道は言葉よりも動作。崩しとか、作りとか、掛けとか、講道館が使いたがる理屈っぽい言葉はいらない。柔道は黙って見せればわかるんです」が信念。寡黙なサムライの姿はフランス人には神秘的だった。

 1968年のメキシコ五輪では柔道は採用されなかったが、1971年には粟津らの努力で第1回パリ国際柔道大会が実現した。現在のグランドスラム・パリ大会だ。粟津の愛弟子ら3人が銅メダルに輝いた。

 柔道が復活した1972年のミュンヘン五輪で、無差別級はヘーシンクと同じオランダのウィレム・ルスカが優勝。東ドイツのクラウス・グラーンは日本のエース・篠巻政利を破っている。

「毎年のヨーロッパ選手権で誰が強いかを見ていた。無差別級ではルスカやグラーンは強かった」

 1975年、95キロ級のジャン・L・ルージェがウィーンで開かれた世界選手権を制覇し、フランス中が沸いた。ルージェは後にフランス柔道連盟の会長となる。2000年のシドニー五輪では、無差別級決勝でダビド・ドゥイエが金メダル。粟津を取材した2015年もテディ・リネールが世界選手権6連覇中と、まさにフランスは柔道大国となった。

異国での努力が報われました

 フランス柔道連盟本部の横にある立派な道場は「DOJO SHOZO AWAZU」と名付けられ、粟津の写真が飾られている。1993年、粟津は日本の勲五等双光旭日章を受けた。

「陛下から受けた感動は忘れられません。異国での努力が報われました」

 1999年にはレジオン・ドヌール勲章(シュヴァリエ)を受ける。ナポレオンが制定した栄えある勲章を受けた際は、シラク大統領(当時)の側近から民枝さんに連絡が入ったという。見せてもらうと意外に小さな勲章だった。

 フランス柔道界の粟津評を知りたく、柔道専門雑誌「L’ESPRIT DU JUDO」誌の知己、オリヴィエ・ルミー記者を訪ねた。猫が寝ていたおしゃれなオフィスで働くスタッフたちは若く、柔道がJUDOになったことを実感した。

「粟津先生は最も連盟に近い位置にいました。フランスの寝技、立ち技をともに強くしました。当初、その指導はラテン系のフランス人には厳しく感じましたが、誠実で常に真剣でした。フランスで柔道をする人は誰も『無口で静かな男』を尊敬します」(ルミー記者)

 後に「誤審」とされたシドニー五輪(2000年)の無差別級決勝についてルミー記者は、「あの場面には優劣はなかった。ただ、その後の戦い方が篠原真一選手よりもダビッド・ドイエ選手が賢かった」と、ちょっと申し訳なさそうに話した。この試合では、篠原がフランスのドイエとほぼ同体で落ちたが、ドイエにポイントが付き、篠原が敗れた。

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