フランス柔道の育ての親「粟津正蔵」が語った、64年東京五輪・無差別級の“日本敗北” 「誰をぶつけても勝てなかった」

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粟津の妻を励ました世界的ピアニスト

 1950年6月、粟津は27歳で渡仏。4週間かけてマルセイユ港に到着するや、10人抜きのイベントに駆り出された。

「長旅で疲れていたのですが断れない。11人を勝ち抜き12人目にフランスで3番目に強い男と対戦し、膝車で投げられました。フランスにも強い柔道家がいるぞと思い、身が引き締まりました」

 その後、粟津の強さは欧州に轟く。またこの渡仏は、京都の友禅染の家に育った民枝さんと結婚した直後だった。

「1年で帰国するからと言って妻を日本に置いていきましたが、フランスの柔道人気は高まる一方。仕事が増えて帰れず、3年目に妻を呼びました。フランス行きなど考えもしなかった妻は、神戸からの船では不安と寂しさで泣いていたそうです」

 同じ船に偶然乗っていたのは、フランスの世界的ピアニスト、アルフレッド・コルトー。息子が粟津に柔道を習っていた大ピアニストは、民枝さんを励ましてくれた。マルセイユ港で待ち構えていたフランス人記者たちは夫婦の感動的な抱擁を期待したが、民枝さんは無言で夫に従って歩くだけだった。

「私の世代の日本人は、人前でフランス人のような抱擁なんてしませんから」(民枝さん)

 日本で習字を教えていた民枝さんは、パリでも習字の先生として夫を支えた。この2015年の取材にも同席し、「夫は無口で、怖いような人だったんですよ」と笑っていた。

コーチで“来日”した1964年の東京五輪

 1956年、東京で第1回の柔道世界選手権が開かれた。粟津は帰国の時間がなかったが、手塩にかけた選手が活躍した。

「ベルナール・パリゼが3位に入った。嬉しかった。2年後も東京でしたがアンリ・クルチーヌも3位になりました」(粟津、以下同)

 渡仏10年目、粟津は帰国を考えた。ところが後任としてフランスに来た天理大学の師範だった男が体を壊して帰国してしまい帰国しそびれる。そして迎えた1964年の東京五輪では、柔道が初めて五輪競技に。この大会の無差別級で日本に立ちはだかったのは、オランダのアントン・ヘーシンクだ。

「すでに曽根(康治)、神永(昭夫)ら強豪が敗れていた。ヘーシンクは大きく力が強いだけではない。体も柔軟で反射神経もよく、走っても泳いでもすごかった。夏の講習会にへーシンクが来ていて、私は弟子の試合で審判をしました。彼は寝技もうまかった。天才柔道家で、行儀のいい立派な男でした」

 東京五輪でフランス代表のコーチだった粟津は胸に三色旗をつけていた。当時、階級は重量、中量、軽量、無差別の4つだけ。育てた中量級のリオネル・グロッサンが健闘したが、準々決勝で日本の岡野功に敗れた。金メダルは岡野だった。

 日本のエース・神永は無差別級決勝でヘーシンクと死闘を繰り広げたが、支え釣り込み足で崩され、袈裟固めに押さえ込まれ力尽きる。「猪熊功をぶつけるべきだった」の声もあった。猪熊には強烈な背負い投げがあったが、神永の方が「受け」が強かった。

「誰をぶつけても勝てなかった。日本の柔道界には衝撃でしたが、外国人の活躍は柔道が国際的になるきっかけになりました」

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1年のつもりが永住となったフランス暮らし。第2回【「日本は遅れてしまった」「もっと細かい技も研究を」…フランス柔道の育ての親「粟津正蔵」が2015年に残していた苦言】では、粟津が当時感じていた「日本柔道のウィークポイント」などについて伝える。

粟野仁雄(あわの・まさお)
ジャーナリスト。1956年、兵庫県生まれ。大阪大学文学部を卒業。2001年まで共同通信記者。著書に「サハリンに残されて」(三一書房)、「警察の犯罪――鹿児島県警・志布志事件」(ワック)、「検察に、殺される」(ベスト新書)、「ルポ 原発難民」(潮出版社)、「アスベスト禍」(集英社新書)など。

デイリー新潮編集部

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