フランス柔道の育ての親「粟津正蔵」が語った、64年東京五輪・無差別級の“日本敗北” 「誰をぶつけても勝てなかった」
日本の4倍もの柔道人口があるとされるフランス。パリ五輪でも注目され、テディ・リネールが男子100キロ超級で3度目の金メダルに輝いた日は、マクロン大統領も会場に駆け付けるほどだった。そんなフランス柔道の礎を築き、“育ての親”と慕われる日本人といえば粟津正蔵である。亡くなる前年の2015年、当時92歳だった粟津はパリ郊外の自宅で自身の柔道人生と、フランス代表コーチとして参加した64年の東京五輪を語った。【ジャーナリスト/粟野仁雄】
(全2回の第1回)
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【貴重写真】フランスに渡った当時の若き粟津夫妻、終の棲家となったパリ郊外の家も
受験に受かっていれば戦死していた
1923年に京都市の酒屋に生まれた粟津は幼くして母を亡くした。小学校5年生の時、足の怪我で入院し、柔道高段者の医者の勧めで柔道を始めた。13歳で初段を取り、強豪の京都市立第一商業学校に入学した。
「岡山の津山高校がライバル。京都一商は寝技が多く、私も6割は寝技で戦いました。明治神宮で行われた皇紀二千六年(1940年)の記念大会で、京都代表として優勝、翌年も優勝しました」(粟津、以下同)
当時の柔道界には伝説の強豪・木村政彦(1917~1993)が君臨していたものの、年齢差があり、粟津との対戦はなかった。粟津が全盛期の頃は戦争真っただ中。神戸商業高校(今の神戸大学経済学部)の受験に失敗し、学徒出陣を免れ京都伏見の連隊で訓練を受けていた時に終戦を迎えた。
「受験で合格していれば戦死していたでしょう。運命ですが幸いでした」
1年と言われて軽い気持ちで
GHQによる戦後の武道禁止が解け、粟津は進駐軍の兵士に柔道の型などを披露し食料などをもらった。1948年の全日本選手権(無差別)で準決勝まで進むなど、全日本選手権には二度出場を果たすが、京都の簡易保険局に勤めたことが人生を変える。
「同僚の女性職員が、戦前からアメリカや欧州で柔道指導していた川石酒造之助(みきのすけ)さん(1899~1969)の妹でした。戦地から引き上げ、故郷の姫路にいた川石さんが私にフランスでの指導を求めてきた時、1年と言われて軽い気持ちで引き受けました」
「酒造之助」という名前の通り、姫路の酒店に生まれた川石は「フランス柔道の生みの親」と言われる人物である。戦前の柔道は嘉納治五郎の講道館派と京都の大日本武徳会に大別され、粟津と川石は武徳会系だった。しかし戦後、GHQにより「軍国主義の温床」とみられた武徳会は解散の憂き目に遭い、うまく立ち回った講道館が主流になる。
「武徳会はみんな羽織袴のような印象で軍国主義教育の象徴のように見られてしまった」と粟津は残念がった。「引き込み」を認めるなど寝技を重視する武徳会系の高専柔道は現在、七つの旧帝国大学に引き継がれている。
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