環境問題の思わぬ副作用! 工業地帯で「校歌」の作り直しが続出した「深刻な事情」
校歌の歌詞には、自然の豊かさや地域をリードする産業、その土地に生きた人々の歴史がちりばめられることが多い。しかし、世の中が変わると、それまで良いことと捉えられていたことが、ネガティブな意味合いを帯びてしまうことがある。
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たとえば、高度成長期、急速な工業化の代償として公害が発生した都市では、もくもくと煙突から上がる煙が、それまで経済発展のシンボルだったのに、環境汚染の元凶と考え直されるケースもあった。
東京大学名誉教授で音楽社会史を専門とする渡辺裕氏の新刊『校歌斉唱! 日本人が育んだ学校文化の謎』(新潮選書)には、その時、どのような議論がわき上がったかが書かれている。同書から一部再編集してお届けしよう。
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一般の新聞で報じられるなどして校歌が全国的な話題になるようなことはほとんどありませんでした。
しかし、過去の新聞記事を検索していると、そういう議論がことさら盛り上がった時期があることがわかります。
1970(昭和45)年頃から80年代にかけて、校歌に関わる記事が急増しているのです。しかも、校歌はどのようなものであるべきか、というような形でそのあり方を根本的に問うような記事が、これまでに見られなかったような頻度で、かなり集中してみられるようになっているのです。
このような動きの引き金を引いたのは環境問題でした。高度経済成長の時代が続くなか、急速に都市化や工業化が進み、海岸の埋め立てや大気汚染などによって、校歌に歌われている「白砂青松」的な世界と現実の周囲の景観とが急速に齟齬をきたすようになったことから、今そういう校歌を歌うことの是非や意義が問われはじめ、さらにはそもそも校歌とはどうあるべきものなのかということが、見過ごすことのできない論点として浮上するようになったのです。
定番「富士山」の歌われ方
1970(昭和45)年9月30日の読売新聞には、「“見えない富士山”歌えるかい/校歌にも公害異変」という記事が掲載されています。富士山といえば、校歌で歌われる「定番」とも言える存在で、相当離れた地域でも歌詞で言及されることがよくありました。
校歌の中で歌われている富士山についての研究もあったりするくらいです(かく言う私の出身高校も千葉市にありましたが、「富士の高嶺のすなおさは/われ等健児の生命なり」という歌詞がつけられていました)。
この記事ではまず、大気汚染で生じたスモッグなどによって、富士山が見られない場所が多くなったために、新設校の校歌で富士山が詠み込まれることが激減していることが指摘されていますが、それだけでなく、すでに制定されている校歌の歌詞がそのような状況の中で「現実ばなれ」してしまっているような学校も取り上げられ、その苦悩が紹介されています。
ドロドロのヘドロ節
取り上げられているのは静岡県富士市立田子浦中学校の校歌(三富功作詞、平井保喜作曲)で、第2節の歌詞は
松は緑に砂白き/なぎさに立てば鴎どり/水あこがれのふし歌い/のどけき舞のてぶりかな
というものなのですが、今や松はほとんど枯れ、田子の浦港は「あこがれの節」どころか、ドロドロのヘドロ節というありさまで、校歌を凍結しようという声も出ているというのです。
そういうなかで校長は、あえて残して歌い続けることで、「自然を返せという叫び」として校歌がひとつの「トリデ」になってもよいのではないか、という談話を寄せていますが、いかにも環境保全のための市民運動が大きなうねりになったこの時代らしい反応といえるかもしれません。
失われた清き流れ
ともあれ、歌詞の内容がこれほどまでに現実ばなれしてしまったなかで、これまでの校歌を自分たちの歌として、何も意識することなく素直に口にすることがもはやできなくなってしまう状況になっていたことは間違いありません。
朝日新聞でも、翌1971(昭和46)年9月4日に「校歌無残/ウソになった歌詞」という同様の記事が掲載されていますが、こちらでは東京の武蔵野市立第四小学校や立川市立第八小学校の校歌が取り上げられ、歌詞に歌われた緑の野辺や清き流れが失われ、宅地造成ラッシュで魚も住めなくなった現状との乖離が甚だしくなった状況が報告されています。
時代状況にあった新歌詞
そういうなかで、時代に合わなくなった校歌に代わって新しい校歌を作る学校もあらわれてきます。1970(昭和45)年10月20日の読売新聞には、千葉県市原市の姉崎小学校で新しい校歌が作られたことが報じられています。
姉崎小学校には1942(昭和17)年に制定された校歌(松原至大作詞、弘田龍太郎作曲)があったのですが、
海と山とに恵まれて/空はあかるく地は豊か
という歌詞が、海が埋め立てられて京葉工業地域になり、煙突が立ち並んでいるような状況とはあまりにも乖離してしまったことから、時代状況にあった歌詞をつけた新校歌(成久清一作詞、小野満作曲)を制定することになったのでした。
フレアスタックの立ち並ぶ風景
その新たな校歌の第2節には
潮の香はるか 遠くなりても/燃えるよ 君と僕 あなたと私/フレアスタックよ 太陽のような/あの逞しい 情熱を
という歌詞がつけられています。
「フレアスタック」というのは、製油所などで発生する余計なガスを焼却する装置から出る炎のことです。石油コンビナートのようなところで、巨大な煙突のてっぺんに大きな炎のあがっているさまはとても印象深いもので、工業化社会を象徴する光景であったと言っても過言ではありません。
それまでこの地域の象徴であった「白砂青松」的な風景に代わり、このフレアスタックの立ち並ぶ風景こそが、来るべき未来社会におけるこの地域の新たな象徴になるという期待が、この歌詞にはこめられていたということでしょう。
時代の感性のありよう
現在からみるとなかなか想像することが難しいかもしれないのですが、高度経済成長の右肩上がりの時代だったこの時期には、たしかにそのような空気感がありました。
私自身、たまたまこの頃には市原市の隣の千葉市に住んで中高生の時代を過ごしていましたから、同級生には他地域から転入してきて、これらの会社に勤めている人の子弟がたくさんおり、そのようにして町の人口がどんどん増えてゆくことを、町の「発展」として感じていました。
そして、遠足などの際にバスの車窓から眺めるフレアスタックの光景をまさに、そういう「発展」を絵に描いたようなものとして受け止めるような、その時代の感性のありようを共有していました。だからその感じはとてもよくわかるのです。
校歌の作り替えという動き
ただ、このような光景をこの地域の未来を夢見させるようなものとしてポジティブに受け止めているだけではすまないような問題が、ここには内包されていました。このような急速な工業化の「副作用」ともいうべき、環境汚染の問題です。
この時期は同時に、いわゆる「公害問題」が顕在化し、各地で公害の撲滅や環境保全を訴える市民運動が盛り上がりはじめた時期でもありました。そしてそのことが、校歌の作り替えにかかわるもうひとつの動きとなってあらわれたのです。
※本記事は、渡辺裕『校歌斉唱! 日本人が育んだ学校文化の謎』(新潮選書)の一部を再編集して作成したものです。