「俺を馬鹿にしているのか!」でキレる大学教授の抱える「歪み」 他人を不幸にする「歪んだ幸せを求める人」とは

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 誰でも幸せになりたいと考えるのは自然なことである。しかしながら、そこに至るまでの「やり方」を間違えると、他人を不幸にしてしまうことがある。自分だけの気持ちで突っ走るストーカー、勝手な理由で身内を巻き込む一家心中はその代表例だろう。

 ベストセラー『ケーキの切れない非行少年たち』の著者で臨床心理士の宮口幸治さんは、新著『歪んだ幸せを求める人たち ケーキの切れない非行少年たち3』の中で、そうした「やり方を間違える」要因の一つに「歪(ゆが)み」があるという。

 他者を巻き込むような幸せは、「歪んだ幸せ」である、というのが宮口さんの見解だ。

 その歪みの要因は、以下の五つに分類されるという。

 「怒りの歪み」

 「嫉妬の歪み」

 「自己愛の歪み」

 「所有欲の歪み」

 「判断の歪み」

 ストーカーや一家心中は「判断の歪み」の産物と言える。

「そんな非合理的な判断はしないから大丈夫」と考える方もいらっしゃるだろうが、感情が高ぶって「怒り」による歪みを抱えることは誰にでもある。結果、やはりおかしな判断をしてしまうのである。

 ここでは誰しもが陥ってしまいがちな「怒りの歪み」の罠についての解説を見てみよう(以下、同書をもとに再構成しました)

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勘違いによる怒り

 まずは身近な怒りの歪みの例をあるストーリーの中でみていきます。より身近に感じていただくために、あえて主人公を“あなた”にしています。

「あなたが仕事を終えて帰ろうとしたときに、雨が降っていたので、会社の入り口の傘立てに置いてあるはずの自分の傘を探しました。しかし、どうしても自分の傘が見当たりません。『傘がなくなっている。誰かが?』。そこであなたは誰かが勝手に盗ったのだろうと考え、“怒り”が生じてきました。そして盗ったかもしれない何人かの顔が浮かんできました。でもしばらくして、あなたは傘を自分のデスクの下に置いていたことを思い出しました」

 自分の傘をデスクの下に置いていたのに、傘立てに置いたと勘違いしていたのです。このような自分の勘違いで一瞬“怒り”が生じることは時折あることだと思います。

 しかし傘をデスクの下に置いたことを思い出すことがなければ、あなたはずっと誰かへの怒りに囚われていたかもしれません。そのときは誰かに盗られたと思っていたので怒りは正しい感情のはずですが、結局は間違った怒りだったのです。

 そのときの自分の主観が正しいかどうかを判断するのはなかなか困難ですが、みなさんが経験する身近な怒りの中にはこういった勘違いによるものもあり、それはまさに「怒りの歪み」に加えられるものでしょう。これはない方がいいネガティブなものですので、こういったことが多くあれば、やはり幸せから遠ざかっていくに違いありません。

怒りや嫉妬で判断が歪む

 ところで、さきほどの話の中で、どうして盗ったかもしれない何人かの顔が浮かんだのでしょうか。続きです。

「盗られたと思ったときにまず思い浮かんだのが先に帰った一つ年下のAでした。仕事の実力も学歴もあなたより下なのですが、愛想がいいのでみんなから好かれ、仕事もなぜか評価されています。そのため、あなたはいつもAに嫉妬していました。Aはそれに気が付いて、あなたにだけ意地悪をしてくるようにあなたは思っていたのです。だからまっさきにAが自分の傘を盗ったのだとあなたは強く疑ったのです。

 またAだけが認められ、自分が認められないことに対して会社に強い不満を持っています。あなたはAのことを思い出したことで、ますます嫉妬心が強まってしまいました。そして自分はもっと出世すべきだ、上司は見る目がない、といった怒りもいっそうこみ上げてきたのです。そう感じると、あなたは、自分のデスクまで傘を取りに戻るのも面倒なので、他の人の傘を黙って使うくらいは問題ないと思いました」

 自分の勘違いや思い込みで身近な相手に「怒りの歪み」や「嫉妬の歪み」をもち、不快になり、「自己愛の歪み」も強まり、そして「判断の歪み」につながると結果的に不適切な行動をしてしまうこともあります。

 怒りや嫉妬心が生じる背景には、自分だけがもつ何らかのストーリーがあります。怒りや嫉妬の対象となるのは誰か、どんな状況か、によって、怒りや嫉妬が生じたり消えたり、程度が変わってきたりします。ですので、自分のもつストーリーをいかに見直して、怒りや嫉妬をコントロールできるかがポイントとなります。

年配大学教授の恥ずかしい振る舞い

 もちろん怒りは勘違いでなくても生じます。馬鹿にされたと過敏に感じてしまうことで生じる怒りもあります。それは次のような例です。

 コロナ禍の頃、大学入試の採点をしていたときのことです。昼の休憩時間になり、学内の食堂でみんなが昼食を摂っていましたが、まだコロナ禍が落ち着いていなかったこともあり、食堂には、パーテーションで区切られた場所で食べるように、との貼り紙がありました。

 ほとんどの人たちはそれに従っていましたが、ある年配の男性教授が、テーブルで数人の仲間と話しながら食べているのが目に入りました。それを見た食堂の女性スタッフが注意すると、その教授は怒りだし、

「俺はここで食べる。俺の好きにする」

 とその女性に向け大声をあげたのです。それに対し、その女性も顔を真っ赤にして、

「規則だから守ってください」

 と返しました。

 状況的にその教授に非があるのは間違いありません。マナー違反を注意されたと言えるでしょう。しかしその後、その教授も女性もお互いに引かず、二人は大声で罵り合いながら口論を続けていました。

 その女性スタッフは仕事だから注意しているだけなのに、いい年した教授がなんと恥ずかしいことを、と思ったのは私だけではなかったと思います。それはマナー違反を注意されたことで生じた動物的な「怒りの歪み」なのです。

 自分が本当に馬鹿にされたのなら怒りは真っ当なものでしょう。そんな場であっても怒りをグッと抑えることができたら人としての格が上がることもあります。

 ただ実際に面と向かって馬鹿にされる体験など、ドラマの世界以外、みなさんも滅多にないことだと思います。しかし、ここで問題になっていて、みなさんの周囲でも頻繁に生じており、かつ厄介なのは、“自分を馬鹿にすることで、自分の価値を下げようとしたと過剰に感じた”がゆえに生じた怒りなのです。

 この男性教授の例では、女性は単に注意しただけで、教授を馬鹿にしたり価値を下げようとしたりしたわけではありません。教授側に、“自分は偉いのだ、どうしてお前なんかに注意されるのか、馬鹿にしているのか”といった「怒りの歪み」があることが問題なのです。

俺を馬鹿にするな!

“俺(私)のことを馬鹿にしているのか?”と思っていそうな人は、色んな場所で見かけます。大阪から三重県の伊勢市に向かう特急列車に乗っていたときのこと。車両は空いていて、私の他に旅行先に向かっているだろう年配の男性4人組も乗っていました。初夏なのでクーラーが効いているはずだったのですが、少し蒸し暑い感じでした。ただ我慢できないほどではありませんので、車掌が通っても誰も文句は言いません。

 30分くらい経った頃、車内が涼しくなってきて過ごしやすくなりました。しばらくして車掌が戻ってきて、「すみません。間違えて暖房を入れていました」と謝罪してきました。すでに涼しくなっていますので、特にクレームをつけるまでもなく私もただ頷いただけでした。ところがその男性グループの4人が一斉に怒り出し、車掌に対して「俺たちを馬鹿にしているのか」と怒鳴り始めたのです。それまで何も文句を言わずに、車内では陽気に過ごしていたのに、です。その人たちは逆に、普段からクレームをつけられるような立場だったのでしょうか。いずれにしても、予想しにくいほどに“馬鹿にされた”と感じ、過剰に反応する人たちがいるのです。

 コンビニ店員の態度が悪かったと母子でクレームをつけ、母親が店員に暴力をふるったことに加担して女子少年院に入ってきた、高校生年齢の女子少年もいました。また細い通路をすれ違ったとき、そもそも道を譲ろうとしない若者に怒りを感じる年配の方もおられます。もともと劣等感が強かったり、高い地位にあり普段みんなからちやほやされ自尊心が肥大したりしている場合に、こういった過剰な怒りが生じるようです。

 自分(たち)が馬鹿にされている、自分(たち)の思い通りにならないといった怒りには、自分だけ連絡がない、自分だけ対応が遅いといった個人的なものから、国家の威信が傷つけられたといった国際問題につながるようなスケールのものもありますので、単に、“そんなことで怒っても”と片付けられないものでもあります。“馬鹿にされず尊重されたい”というのは幸せを感じるために必要なことです。

 しかし、馬鹿にされたと感じたときに生じるのは、多くの場合、動物的な怒りであり、それが時には相手に対する攻撃に転じることもあります。万が一、傷害事件につながるようなことになれば、双方が幸せから遠ざかることになります。自分の作ったご飯を食べない子どもに対して虐待を行った親から、「子どもに馬鹿にされたと感じたから」と聞いたこともあります。これも自身を否定されたと思ったことに起因する「怒りの歪み」と言えるでしょう。

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 こうした「歪み」を抱えないようにするには、相手のストーリー(事情)を理解することが役立つ、と宮口さんは説いている。ただ一方で、そのように相手のことを理解する能力に欠けた人も珍しくない。宮口さんが医療少年院で接してきた少年にもそういうタイプが一定数いたのだという。実社会でも同様であるし、決して他人事ではない。

 常に自分自身が何らかの「歪み」を抱えていないか、チェックする習慣があってもいいのかもしれない。

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