【教科書には載せられない話】《日本社会主義の父》の「不適切にもほどがある前半生」とは?

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 堺利彦(1871~1933)と言えば、「日本社会主義の父」として教科書でも紹介されている偉人である。幸徳秋水と共に「平民社」を設立し、非戦論や社会主義運動に生涯を捧げた。

 しかし、その前半生は、実は教科書には載せられないぐらい堕落した生活ぶりだったという。日本思想史研究者・尾原宏之さんの新刊『「反・東大」の思想史』(新潮選書)では、東大への進学失敗が、堺の人生に大きな影を落としていた様子が描かれている。同書から一部を再編集してお届けしよう。

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吉原通いで人生暗転

「日本社会主義の父」と呼ばれる堺利彦は、日本ではじめて『共産党宣言』を訳出し、明治期から昭和初期まで社会主義運動を牽引した人物である。堺は、一高・東大に人生を2度潰されかけた経歴を持つ。そしてその経験が、堺を社会主義に接近させたといってよい。

 2度潰されかけたとはいっても、1度目は自業自得である。廃藩置県前の1871(明治3)年、豊前国(現・福岡県)豊津の貧乏士族の家に生まれた堺は、豊津中学を第一等で卒業、旧藩主小笠原家が出資する育英会の貸費生となって15歳で上京した。優秀な成績を見込まれて養子にもらわれ、陸軍中佐馬場素彦(陸軍省徴兵課長などを務め徴兵令改正の実務にあたった人物)の娘と許婚になった。
 
 堺が目指したのは、上京した1886(明治19)年に東京大学から改組された帝国大学への道である。まずは「登竜門」である第一高等中学校(一高の前身)の入試に挑んだ。1度目は失敗したものの、中村正直の同人社や、予備校として定評のあった共立学校での準備を経て翌年合格する。このまま帝大に進み、卒業すれば輝かしい未来が待っているはずで、養家も郷党も当然期待していた。

 だが17歳になった頃、悪い仲間の手引きで飲酒や吉原での遊び(要するに買春)にはまり込み、借金して放蕩するようになった。学業はそっちのけとなる。第二外国語のドイツ語はとりわけ鬼門で、欠席ばかりでまるで物にならない。借金で首が回らないのに遊び癖が抜けず、夏服と破れ靴で真冬の吉原を物欲しげに徘徊した。母親がこしらえてくれた博多帯、羽織もすべて質屋行きである。明治憲法が発布される1889年、学費未納のため学校から除籍され、養家からも絶縁された。

ひたすら罵倒の文芸批評

 帝大への道から落伍した堺は、先に大阪の文学界に足を踏み入れていた兄の手引きもあって、文士修業の道に入る。頭角をあらわすのは早かった。1889年には『福岡日日新聞』に短編小説「悪魔」を投稿、連載される。その後兄を頼って大阪に行き、小学校教員や新聞記者をしながら創作活動を続けた。1893年には、森鴎外が主宰する文芸誌『しがらみ草紙』に小説「隔塀物語」を発表した。

 文筆に活路を見出した堺にとって、1899年、28歳で新聞『萬朝報』の記者に採用されたことは大きなチャンスとなった。『萬朝報』は、1900年頃まで東京で発行されていた新聞の中で最大部数を誇っており、幸徳秋水や内村鑑三といった気鋭の論客を続々と入社させていた。
 
 当初堺は文芸欄「よろづ文学」での文芸批評や「上品なる三面記事」を担当する約束で、懸賞小説の選評委員長にも任命された。新聞を足場に文学方面で名声を獲得することも夢ではない。

 だが、それも幻に終わった。またしても東大が堺を挫折させたのである。すでに1897年、京都帝国大学の創設にともなって帝国大学は東京帝国大学に改称していた。
 
 堺の文芸批評の評判は芳しくなかった。既成作家から新人にいたるまで「平々凡々陳々腐々」「軽佻浮薄」とひたすら罵倒する。小説界の「新生面」を切り開け、などと叫ぶ割にあまり内容がない。

「学閥」への対抗意識

 特に『荒城の月』の作詞者として知られる土井晩翠の処女詩集『天地有情』を、「平凡拙劣」「弛緩無力」などと酷評したこと(『萬朝報』1899年7月29日)は大きな非難を浴びた。「〔堺に〕批評の資格ありや」「〔堺に〕如何なる文学上の歴史〔実績〕あるやを知らず」「漫罵を見て嘔吐を催す」といった苦情が寄せられた(同9月5日)。

 土井晩翠は1871年生まれで堺とほぼ同年齢だが、仙台の第二高等中学校を経て東京帝国大学文科大学英文学科を卒業し、『天地有情』刊行の翌年には第二高等学校教授に就任する。堺は、自分に寄せられた苦情の背後に「文学閥」の力を感じた。「無名にして肩書なき小家」である堺が、東大卒の文学士である晩翠を批判したことが咎められていると感じたのである。
 
 堺は次のように反論する。学士ではない人間には文芸批評の資格がないというのか。新聞や雑誌から大家扱いされないと語る資格がないというのか(同9月5日)。東大卒の学士に対する対抗意識を、紙面で丸出しにしている。

「非エリート」からの批判

 堺の反論に対して、意外な方向から弾が飛んできた。『萬朝報』文芸欄の前任者、斎藤緑雨である。緑雨は明治法律学校中退であり、東大を拠点とする「文学閥」とは縁がない。その緑雨は、堺の批評を「日本の首府で発行して、十万の読者を持つと言はれる新聞紙の文学欄に、あんまり見かねた事」だと酷評した(『読売新聞』1899年9月10日)。

「枯川〔堺の筆名〕君、君の資格や歴史やを疑つた者があるとすれば、それは族籍に関した事ではなく、甚だ申上げにくいが知見に関した事だらう……今の文壇は幼稚だの浅薄だのと言つても、思想なり理論なりもう些(ちっ)と進歩して居るのだから、足を入れるなら入れるで、精々こまかに磨いて来て貰ひたいね」(同9月7日)。
 
 堺自身は、東大の権威と無名文士との戦いという対立構図を押し出したのだが、第三者の緑雨は単純に堺の「知見」が足りないことが問題だ、と切り捨てたのである。ちょうど同じ頃、同僚の幸徳秋水からも「偏狭」さを注意されたという(「三十歳記」)。

『帝国文学』からのダメ出し

 最も痛烈な批判は、堺がたどり着くことができなかった東京帝国大学から飛んできた。雑誌『帝国文学』である。『帝国文学』は、井上哲次郎ら東大文科関係者、そして学生だった高山樗牛、姉崎正治、上田敏らが1895年に創刊した雑誌で、晩翠も編集委員を務めた。
 
『帝国文学』第5巻第12号の「雑報」にはこんな論評がある。『萬朝報』で堺枯川と名乗る者が批評を書いている。堺の学歴と素養は知らないが、前にこの人の書いた小説を読んだことがある。凡庸で平板な「駄小説」だった。その批評文も非常識、ただの漫罵で含蓄も卓見もない。

 要するに実作者としても批評家としても才能ゼロだと認定されてしまったのである。

二度目の挫折から社会主義へ

 前任者である緑雨、『帝国文学』から完全否定された堺は、どうなっていっただろうか。その後も、『帝国文学』の記者には見る目がない、などと意気軒昂に反論してみたが、威勢のよさとは裏腹に、文学から徐々に足を洗っていくことになった。1900年には、文芸欄から「雑誌新聞論説の抜萃批評」に担当替えとなる。
 
 堺はのち自伝でこの時期のことを「予は先(ま)づ生命なき文学に飽いて、漸(ようや)く政治に向つて進んで来た」と回想するが(『半生の墓』)、これは社会主義者となった後の視点にすぎないだろう。日記には、もっと率直な感想を記している。「我輩が若(も)し数年前に小説で多少成功して居たならば、どうであらうか、成功せなんだのが却つて仕合せであつたかも知れぬ、否、成功せなんだのは即ち不適当な事であつたからであらう」(「三十歳記」)。
 
 要するに、自己の文学的能力の限界を痛感したことになる。自伝でいうように、東大以外の「別の道」から再び「登竜門」に入りかけたが、「その門は狭かつた」わけである。

 その後堺は、『萬朝報』を母体として結成された社会改良団体、理想団の活動に参加し、社会問題への関心を強めていく。社会主義者として本格的なスタートを切るのは、日露戦争非戦論を唱えて内村鑑三、幸徳秋水らと新聞社を退社し、幸徳とともに平民社を創設した1903年頃のことである。

※本記事は、尾原宏之『「反・東大」の思想史』(新潮選書)に基づいて作成したものです。

尾原宏之(おはら・ひろゆき)
1973年、山形県生まれ。甲南大学法学部教授。早稲田大学政治経済学部卒業。日本放送協会(NHK)勤務を経て、東京都立大学大学院社会科学研究科博士課程単位取得退学。博士(政治学)。専門は日本政治思想史。首都大学東京都市教養学部法学系助教などを経て現職。著書に『大正大震災 忘却された断層』、『軍事と公論 明治元老院の政治思想』、『娯楽番組を創った男 丸山鐵雄と〈サラリーマン表現者〉の誕生』、『「反・東大」の思想史』など。

デイリー新潮編集部

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