【パリ五輪】加納虹輝が個人初「金メダル」に輝いたフェンシング 実ははるか昔にも“無類の強さ”を誇った日本人がいた(小林信也)

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 パリ五輪フェンシングで日本は男子フルーレ団体と女子サーブル江村美咲が金メダルを期待されていた。いつから日本は強くなったのか? 2008年北京五輪で銀メダルを取った太田雄貴よりはるか前、1930年代に無類の強さを誇った日本人がいた。評伝『タイガー・モリと呼ばれた男』にも描かれた森寅雄だ。

 寅雄はロサンゼルスに渡った半年後、38年南加州選手権に優勝。全米選手権では決勝で敗れたが、

「寅雄が勝っていた。人種差別的判定で負けたといわれています」と評伝の著者・早瀬利之が教えてくれた。

 全米王者は逃したが、ハリウッドのスターたちから敬愛された。フェンシング愛好家には銀幕スターが多かった。彼らはロスの道場で寅雄に指導を求めた。

「お前はまだ若い」

 渡米前、寅雄は剣道で実力日本一と謳われる剣士だった。評伝は記す。

〈野間寅雄は、昭和七年三月に巣鴨中学を卒業した。先輩の佐々木二朗の勧めもあって、明治大学から誘われている。そのことを伯父の野間清治に相談した。伯父は、

「剣道で修業すれば、世間に立派に通用する。それに、早く新聞社に入って修業したほうがいい」

 と言って反対した。

 新聞社とは、赤字経営で行き詰っていたところを、昭和五年に野間清治が肩代わりした報知新聞社である〉

 祖母の実家の森姓を名乗る前、寅雄は野間姓だった。寅雄は講談社の創業者・野間清治の妹の子で、8歳のころ清治に引き取られ、報知新聞の後継者と期待された。幕末の剣士、北辰一刀流玄武館四天王のひとり森要蔵を曾祖父に持つ寅雄は、17歳の時、明治神宮体育大会の中等学校の部で優勝している。約90年前、剣道は国民的人気を集めていたようだ。評伝はこうつづる。

〈剣道に関心を持つ者は、全国民の九十パーセント近いものだった(中略)。とりわけ最大の関心事は、昭和九年の、皇太子殿下御誕生奉祝天覧武道大会だった。

 のちに、この大会で優勝した野間恒の場合は、帝国ホテルで各界の著名人を集めた祝賀会が催されたり、またいろいろな講演に引き出されて大スターなみだった〉

 恒は清治の長男、講談社の2代目社長になる人物だ。寅雄はなぜ恒の優勝を許したのだろう。

 天覧試合の代表を決める東京都予選の決勝リーグで寅雄は恒に敗れ2位に甘んじた。優勝した恒が天覧試合に進めたのだ。

〈(この試合を見た)寅雄の兄恒次が、ふと呟いた〉と早瀬が書いている。

〈「寅雄の様子がおかしいな」

 恒との試合のときに限り、寅雄の動きが止まっていたのである〉

〈恒と寅雄を見ていた人びとは、あまりの呆気なさに唖然とした。何かの間違いではないか、というのが大方の反応だった〉

〈前夜、寅雄は野間清治に呼ばれている。そのときの内容については、ついに本人は誰にも語り残していない。たった一人、実の姉にだけ、少し漏らしただけである〉

 その姉から聞いたという寅雄の弟子・江戸太郎の証言が続く。

〈彼は日本で聞いた話を、即座には話さなかった。何か喉元に引っかかるものがあり、言葉にならないふうだった。

 江戸太郎は、しばらくしたあとで涙ぐみ、やっとこう呟いた。

「私は香港からの帰りでした。日本に寄って、寅雄さんの姉さんを桐生に訪ねたんです。その方は寅雄さんから、『前夜野間清治に呼ばれ、お前はまだ若いのだからと言われた』――そう聞いたそうです」〉

 勝ちを譲れと言われたようにも取れる。だが、清治を知る人物の直感は違う。

「清治は野間道場を開いて、流派に限らず剣士を受け入れた最初の人です。稽古の後、全員に朝粥を振る舞った。度量の大きな清治がそんな指図をするだろうか」

 先輩たちがそう話すのを聞いた、と言うのは剣道史に関する著作のある山本甲一だ。山本の師・渡辺敏雄は、野間道場の稽古の常連で清治の囲碁の相手を務めた。恒とも仲の良かった渡辺はこうも言った。

「恒の方がやりにくかった。沖から荒波が岩をも砕く強さで迫ってくるような迫力があった」

 恒と対峙した寅雄も、その迫力に圧され、動きを失った可能性がある。

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