【光る君へ】側室の子が誉められるのはダメ… 道長が「わが子」に露骨な差をつけた理由
道長が正妻に頭が上がらなかった理由
時代が少し下ってからのエピソードをひとつ。寛弘5年(1008)11月1日、中宮となった道長の長女の彰子が、一条天皇とのあいだに産んだ敦成親王の、生まれて50日の祝いが道長の土御門邸で開催された。祝宴が終わったのちのことが『紫式部日記』に次のように書かれている。
「宮の御ててにてまろ悪ろからず、まろが娘にて宮わろくおはしまさず。母もまた幸ひありと思ひて、笑ひ給ふめり。よい男は持たれかしと思ひたんめり(中宮彰子のおとうさんとして、私はなかなかのものだし、私の娘として中宮はなかなかでいらっしゃる。中宮の母の倫子もまた、運がよかったと思って、笑っているようだ。よい夫を持ったと思っているのだろう)」
道長は自分が最高権力者であることが、家族にも「幸ひ」をもたらしている様子を誇らしげに語った。ところが、それを聞いた倫子は、だまって席を立ち、自室に戻ってしまったという。
山本淳子氏は倫子の心中について、「倫子を玉の輿に乗せたかのような言い方は、断じて許すことができない」と記す。なぜだろうか。「(道長が最高権力者になれたのは)源氏の左大臣家が彼の後ろ盾となり、結婚当初からパリッとした装束を着せて人心を集めるなど、中関白家が隆盛を極めた時期でも経済的・政治的な援助を惜しまなかったからこそである。道長はその恩を忘れてはならない。倫子は一言も発することなく、行動でそれを主張したのだった」(『道長ものがたり』朝日選書)。
道長は摂政にもなった藤原兼家の息子とはいえ、末っ子の五男(正妻の子としては三男)だった。それに、藤原氏は最初から天皇の臣下で血はつながっていない。ところが、倫子は天皇のひ孫であった。
血筋だけなら明子は天皇の孫で、倫子より高貴な血筋ともいえる。しかし、道長と結婚したときにすでに家は没落していた。一方、倫子は家ぐるみで道長を支えた。だから道長としては、倫子が産んだ子息と明子が産んだ子息のあいだに、しっかりと序列をもうける必要があったのだ。詮子の四十の賀の祭も、頼宗の舞を安易にほめた一条天皇に対して、立腹するかたちでデモンストレーションしたと考えられるのである。
正妻の子と側室の子であまりに露骨な格差
実際、道長は倫子が産んだ子を露骨に贔屓した。まず男子だが、倫子が産んだ長男の頼通も五男の教通も、関白太政大臣という臣下としての最高位に達した。一方、明子が産んだ男子は、次男の頼宗は右大臣になったが、四男の能信と六男の長家は権大納言止まり。一般にはまずまずの出世だとはいえ、倫子の息子との格差は歴然としていた。
道長にはもう1人、明子が産んだ男子があった。三男の顕信だが、次のようなエピソードがある。寛弘8年(1011)年末、三条天皇は顕信を天皇の秘書官長である蔵人頭に抜擢しようとしたが、道長はその人事を断ってしまった。道長は自分が構想する息子たちの序列を、天皇にも乱されたくなかったのだろう。しかし、顕信はショックを受けたと見え、1カ月後に突然、出家してしまったのである。
娘たちの嫁ぎ先にも歴然たる差があった。倫子が産んだ娘は、長女の彰子が一条天皇の中宮になったのに続き、次女の妍子は三条天皇の、四女の威子は後一条天皇の中宮にそれぞれなった。六女の嬉子が中宮になれなかったのは、入内した東宮(皇太子)が後朱雀天皇として即位する前に亡くなったからにすぎない。要するに、全員を天皇や東宮に入内させ、正室にしたのである。
それにくらべると、明子が産んだ娘は差をつけられた。三女の寛子は三条天皇の第一皇子、敦明親王の女御になったが、その時点で親王は即位への道が断たれていた。また、五女の尊子は源師房に嫁いだ。師房は村上天皇の第七皇子の子で、臣籍降下はしていても天皇の孫である。とはいえ、倫子の娘が4人とも天皇や東宮に嫁いだのとくらべると、差は大きい。
現代の感覚からすると、こうした差別は理不尽に思われるかもしれない。だが、木村朗子氏は「正妻格の子でなければ、劣り腹の子として扱われた。女たちは序列化されており、その女たちの序列にしたがって子も序列化されるわけである」と記す(『紫式部と男たち』文春新書)。
それが当時の宮廷社会における常識で、そのことが御家騒動の芽を摘むことにもつながった。『光る君へ』のさり気ない場面はそんなことも語っている。
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