【光る君へ】側室の子が誉められるのはダメ… 道長が「わが子」に露骨な差をつけた理由

国内 社会

  • ブックマーク

正妻の子(頼通)に異母弟が勝った場面

 藤原道長は永延元年(987)、ほぼ同時期に、高貴な血を引く2人の女性と結婚した。1人は左大臣源雅信の長女で、正妻となった倫子。源雅信は宇多天皇の孫だから、道長の正妻は天皇のひ孫だったことになる。もう1人は、失脚した源高明の長女、明子。父の後ろ盾がないので正妻にはなれなかったが、高明は醍醐天皇の子なので、明子は天皇の孫にあたる。

 道長は宮廷社会で勝者になるためにも、妻の血筋に決定的にこだわった。そして2人の妻は、ともに子沢山に恵まれた。倫子は2男4女を、明子は4男2女を産んでいる。

 NHK大河ドラマ『光る君へ』の第29回「母として」(7月28日放送)では、これら2人の妻が、道長(柄本佑)をはさんでそろい踏みする場面が描かれた。道長の屋敷である土御門殿で、道長の姉で一条天皇の母である東三条院詮子(吉田羊)が、当時は長寿とみなされた40歳になったのを祝う四十の賀が行われ、そこに倫子(黒木華)も明子(瀧内久美)も参加したのである。

 そこでは、倫子が産んだ田鶴(三浦綺羅、のちの摂政太政大臣藤原頼道)と、明子が産んだ巌(渡邉斗翔、のちの右大臣藤原頼宗)が、そろって舞を披露した。

 赤い衣裳を身にまとった田鶴の舞に、倫子の隣に座る道長は「見事なものだな」と感心する。ところが、青い衣裳の巌が舞うと場の空気が一変した。みな巌に釘づけになり、明子はしたり顔だ。一条天皇も大満足で、天皇から上位を伝えられた右大臣藤原顕光(宮川一朗太)は、「お上から仰せがございました。巌君の舞の師に従五位下の位を授ける」と告げた。

 巌の師匠は恐縮しきりだが、異母弟に負けた田鶴は泣き出てしまった。道長は「田鶴、女院様のめでたき場であるぞ。泣くのはやめよ」といさめ、一条天皇と詮子に向かって「せっかくの興に水を差してしまいました」と詫びた。

側室の子が誉められたので腹を立てた

 長保3年(1001)10月9日に行われた詮子の四十の賀では、史実においても『光る君へ』で描かれたのと同様の場面があった。数え10歳の頼通が「蘭陵王」を、同9歳の頼宗が「納蘇利」をテーマに舞ったとのことで、ドラマで秋山竜次が演じている藤原実資の日記『小右記』には、当日のことが以下のように記されている。

「陵王の兄は既に愛子、中宮の弟、当腹の長子。納蘇利は外腹の子、其の愛猶浅し。今、納蘇利の師を賞せらる、仍りて分怨する所と云々(蘭陵王を舞った兄)は、道長の愛息子で、中宮彰子の弟にあたる、正妻が産んだ長男である。納蘇利を舞ったのは側室の子で、彼に対する道長の愛情は浅い。ところがいま、納蘇利(を舞った長男)の師匠を一条天皇は称賛されたので、道長は腹を立てたのだとか」

 すなわち、道長は2人の息子のうち、正妻の子である頼通によりいっそうの愛情を注いでいるので、一条天皇が側室の子を称賛したために腹を立てた――宮中ではそう噂されていたと実資は書いている。

 また、『大鏡』には、明子の子の頼宗が称賛されたことに不服を示したのは、倫子だと書かれている。歴史物語である『大鏡』の記述をもって史実とは断定できないが、道長が正妻である倫子の立場に配慮した可能性はあるだろう。というのも、道長は倫子に頭が上がらなかったからである。

次ページ:道長が正妻に頭が上がらなかった理由

前へ 1 2 次へ

[1/2ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。