「轟悠」と面談、「真琴つばさ」からポスターのオファー…「宝塚トップスター」との夢のような“縁”を横尾忠則が語る

  • ブックマーク

 26年前の1998年に宝塚歌劇を観ました。現在のようにテレビや雑誌などで日常的に宝塚が頻繁に紹介される時代ではまだなかったように思います。そんな頃に、ひょんなことで宝塚大劇場へ行ったのです。そして言葉にならない衝撃を受けました。言葉にならないのだから、その時の興奮、感動を伝えることができませんが、劇場を出た時、目の前の現実の風景がなんとも白々しく、薄っぺらに見えたのです。舞台に釘づけされていたその時間こそが現実で、今、目の前に映っているいわゆる現実が、まるでウソのように、死んだ風景のように呼吸をしていないのです。

 あの数時間こそ僕にとっての実相世界でした。つまり、生滅変化する万物の奥にあるまだ生きたままの人間が体現できない真実の相と言うべき世界体験をしてしまったのです。この体験を東京までどのように持続させながら持ち帰ることができるのだろうか。そこで僕は宝塚歌劇の関連商品を販売している店のひとつに飛び込みました。そして店内に飾られている宝塚スターのブロマイドを買いました。今しがた観た雪組の出演者の名前も知りませんが、宝塚の出演者全員、まだ観たこともない、また過去の出演者も、その全ての宝塚のスターを僕の内なる存在として共有したい。そんな願望から、店内の全ブロマイドを手に入れたい。「とにかく1000枚買いたい」。店には1000枚もなく、あとで東京に送ってもらうことになりました。この時の噂はその後、宝塚歌劇団の間にも広がったようです。

 帰京後、ブロマイドだけでは満足できない。あの雪組公演「浅茅が宿」で舞台の真中に立っていたトップスターの轟悠さんに会いたい、そんな強い願望が、とうとう宝塚歌劇団にも伝わり、轟悠さんと面談できるという夢のような奇蹟が実現しました。そんな僕の衝動が宝塚の他の組にも伝わったのか、月組のトップスターの真琴つばささんから公演「LUNA」のポスターのオファーを受け、理事長の植田紳爾さん、演出の小池修一郎さんとも会い、まさかの夢の実現です。今、想い返そうとしても、どのような順序で、現実に宝塚歌劇団のポスターが作れるようになったのか、あの頃のことが夢の中の出来事のようで、よく想い出せないのです。今、想うとあり得ないことが起こっていたのです。

 宝塚歌劇団で行なわれる全ての事象はその内部のスタッフによって行なわれていたので、僕のような外部の人間がまるでスタッフの一員のようになって、クリエイトするなんて、そう簡単なことではなかったように思います。宝塚歌劇団にとっても公演ポスターは非常に重要な媒体です。そしてポスターの制作に関して演出家やカメラマンや出演者との意志の疎通も必要です。客席から舞台の憧れのスターを眺めている、そんな客観的な態度ではポスターが制作できません。気がついたら宝塚歌劇団のそれぞれのプロデューサや演出者とも、まるで自分が宝塚歌劇団のスタッフの一員のようになって行動していることに気づきました。

 しかし、客席から舞台を眺めている時は完全な一ファンになっています。月組の「LUNA」を初めとして、その後、花組を除く他の四組のポスターを担当することになりました。それぞれの演出家の意向を聞きながら、トップスター達にポスターのためのポーズを演じてもらう。そして公演の初日には舞台の一番真中の最前列のプラチナシートで鑑賞することができたのです。僕は演出家でもないのに客席から舞台で演じている俳優の細部に至る演技や、あるいは演出、照明、音楽、衣装までに対しても、まるで宝塚歌劇場のスタッフの一員になったような気持で眺めていることに気づきました。だけどいいこともありました。舞台上のトップスターから、投げキッスやウインクが飛んでくるという特典です。

 そして、轟悠さんと初めて会った時、いつか舞台美術をぜひやって下さいと言われていたのが、彼女の「タカラヅカ・ドリーム・キングダム」(作・演出=三木章雄)で舞台美術を依頼されたのには驚きました。舞台美術の仕事は初めてではなく、すでにミラノのスカラ座でモーリス・ベジャールの「ディオニソス」のバレエや中国でのオペラの舞台美術を制作した経験はありましたが、宝塚大劇場の舞台美術は僕にとっては特別の記念すべき、人生の中でも記憶される作品でありました。いろいろと美術関係者に声を掛けたにもかかわらず、残念ながら一人として観てくれなかったことが悔やまれます。

 宝塚との夢のコラボも、植田紳爾さんが理事長をお辞めになると同時に、宝塚のポスターのオファーはなくなりました。

 ただひとつ悔やまれるのは数年前、轟悠さんの引退発表後の公演を植田さんの演出と僕の舞台美術でという依頼を受けながら他の仕事とバッティングし、その上体調を崩していたためにできなかったことです。それだけが心残りになっています。そんな轟さんも舞台から完全に足を洗って、現在は画家として再出発されたばかりで、植田さんと彼女との3人のコラボは永遠になくなりました。

 だけど宝塚歌劇の世界観には実は僕の無意識と共有するものがあり、特に男役は創造の源泉というべき存在で両性具有を体感し、女性原理が霊感を受信し、男性原理がその霊感を創造力に変換して社会に発信するという芸術行為そのものなんです。僕はそのことを宝塚歌劇との出合いによって体得したように思います。

横尾忠則(よこお・ただのり)
1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。第27回高松宮殿下記念世界文化賞。東京都名誉都民顕彰。日本芸術院会員。文化功労者。

週刊新潮 2024年8月1日号掲載

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。