「末は野垂れ死んでもいい…」 人知れず死ぬことを理想とし、戒名も望まなかった「渥美清」が生前に“位牌”を作った理由
「もういいんだよ」
渥美さんはシリーズ45作「寅次郎の青春」(92年)の終わりごろから、首筋の衰えを隠すためマフラーを巻くようになったというが、晩年の作品に出演できたのは本当に「奇跡」に近いことだった。とはいえ、ロケの合間、笑顔を見せることはめっきり減り、サインや握手を求めるファンを無視することもあった。
「寅さん、愛想ないね」。事情を知らないファンから罵声が飛ぶ。「おい、天皇陛下だって手を振るぞ」と一緒に撮影していた関さんが注意したことがあったが、「もういいんだよ」と投げやりな答えしか返ってこなかった。
95年暮れに公開されたシリーズ48作「寅次郎紅の花」まで作られた背景には「もう1作、いやもう1作」という世間の期待もあった。晩年は日本人の誰からも愛される寅さんのイメージに縛られ、がんじがらめになってしまったような気もする。
虚構の人物像に「命」を吹き込むことは俳優として理想かも知れないが、寅さんの場合は演じる渥美清という俳優の命まで飲み込み、押し潰してしまった面は否定できない。友人の小沢昭一さん(1929~2012)や永六輔さん(1933~2016)がことあるごとに、
「寅さんだけが渥美清ではない。もっと広く、もっと深く、寅さんではない渥美清について語られるべきではないか」
と憤慨していたが、たしかにその通りである。渥美さんが俳人の尾崎放哉や種田山頭火(1882~1940)を演じる企画を温めていた脚本家・早坂暁さん(1929~2017)は「彼は大きなものを持っていた。彼を通して昭和を描きたかった」と話していた。
だが、寅さんに徹し、寅さんを愛した。凡人の私などは、がん治療の今後に弱音を吐いてしまうこともあるが、渥美さんは家族の前でも気丈に振る舞った。ギリギリまで命を削り、「車寅次郎」を演じたのは俳優としての美学だろう。頑固で古風な昭和の男でもあったが、無垢な気持ちでやがて訪れる自分の死を見つめていたに違いない。
次回は「日本プロレス界の父」と呼ばれたプロレスラー・力道山(1924~1963)。生誕100年の今年、さまざまなイベントが予定されているという。その波乱の生涯を追う。
[3/3ページ]