「末は野垂れ死んでもいい…」 人知れず死ぬことを理想とし、戒名も望まなかった「渥美清」が生前に“位牌”を作った理由
55歳で作った位牌
矛盾するようだが、渥美さんにはとても熱い血が流れていた。捨て身の演技には凄まじいまでの狂気が走っていた反面、人情喜劇ではしたたかに「古き良き日本人」を演じ、観客の涙を誘った。
私生活のほとんどを隠していた渥美さんだったが、例外は関敬六さんだった。浅草フランス座時代からの友人で、ともに1928(昭和3)年生まれ。四角い顔の渥美さんに対して、まん丸顔の関さん。泥くさいドタバタ喜劇役者だった関さんとの友情は続いた。
私は1983年、岡山県の備中高梁でロケされた「男はつらいよ 口笛を吹く寅次郎」を思い起こす。映像を見ていると、渥美さんは顔色も良く、乗っているのがよく分かる。まさに「面白い寅さん」を演じており、シリーズ50作の中で最高傑作という見方をするファンも少なくない。
このロケの合間、実に興味深い出来事があった。
宿舎に戻る途中、渥美さんは突然、車を止めさせ、仏具屋に寄って自分と関さんの位牌を作ったのである。当時2人は55歳。戒名はなく、渥美さんの位牌には「田所康雄之霊 昭和五十八年十一月二日 岡山県総社市にて 朋友関敬六と之を作る」と刻まれたが、関さんの位牌は本名ではなく「関敬六之霊」とあった。
「あのときは気づかなかったのだが、渥美やんはなぜ自分の位牌だけに本名を記したのだろうか。俺は本名の関谷敬二ではなく、なぜ関敬六だったのだろう」
関さんはそのとき作った位牌を私に見せ、こんな疑問を吐露したことがあった。たしかに振り返ってみると、おかしな出来事だ。渥美さんは当時、
「こういうのは験(げん)のもので、生きているうちに作っておくと逆に長生きするぞ」
と関さんを説得したというが、このころからすでに自らの「死」を意識していたのだろうか。
渥美さんは放浪の俳人・尾崎放哉(1885~1926)にあこがれ、人知れず死ぬことを理想とし、戒名も望んでいなかった。位牌があれば十分と思っていたのだろう。60歳を過ぎ、がんを告知されてからは病的なまでに諦念が強くなる。以前、本欄でも書いたが、周囲にこんなことを言っている。
「トンボのように、こう、ふらーっと、いつも自分の好きなところに出かけて生涯終われるんだったら、末は野垂れ死んでもいいんじゃないですかね」
「ひとり静かに、誰もいない山道をとぼとぼ歩いていくんだよ。そうすると、枯れ葉がね、チャバチャバと手品師の花びらのように落ちてくるんだよ」
だが、「寅さん」という架空の人物を演じ続けていかなければならない宿命が彼を苦しめる。がんが進行し、四角いトランクを提げ歩くだけでも大変だったはずなのに、つらそうな表情を浮かべることはできない。
私も末期がん患者となり、抗がん剤治療を受けているが、急激に痩せてしまい、首筋などは骨が浮き彫りになってしまった。渥美さんに関しては「顔が化石みたい」「顔が3分の2くらい」などと生々しい表現すら共演者から飛び出した。確かに、がん細胞というのはものすごいスピードで正常な細胞を壊し、体をむしばんでいく。抗がん剤の副作用で、あの甲高くよく響く渥美さんの声もかすれがちになってしまった。
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