「末は野垂れ死んでもいい…」 人知れず死ぬことを理想とし、戒名も望まなかった「渥美清」が生前に“位牌”を作った理由

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 朝日新聞で自身のがん闘病の詳細を連載して大きな反響を呼んだ同紙編集委員・小泉信一さんが、様々なジャンルで活躍した人たちの人生の幕引きを前に抱いた諦念、無常観を探る連載「メメント・モリな人たち」。今週は昨年5月の連載第1回で登場した渥美清さん(1928~1996)を再び取り上げます。がんになったことを周囲に隠していた渥美さん。同じ病気にかかった小泉さんは、最後まで「寅さん」を演じ続けた渥美さんの生き方を再考したといいます。

「板橋の職安」の意味

 渥美清さんは不思議な人だった。強烈な上昇志向を持っていた反面、「人生なんて所詮そんなもの」という諦めに似たようなものを心の片隅に潜ませていた。自分の死についても「板橋のほうの職安の脇のドブに頭を突っ込んでいるような死に方をしたい」と願っていた。

 板橋とは東京23区の北西の区。渥美さんにとっては貧しかった少年時代に暮らしていた街だ。あたりは一面の麦畑。西の空に富士山が見えたという。渥美さんは昼食の弁当を持ってこられず、支給された玄米飯を食べていた。

 勉強は大嫌い。授業を受ける時間より廊下で立たされているほうが長かったという。が、記憶力は抜群。ラジオ放送の講談や落語は聞いたそばから覚えて学校で披露し、みんなを笑わせたそうである。

 そんな板橋時代を懐かしむかのような「板橋のほうの職安」。渥美さんならではの、ありありと目に浮かぶ表現である。職安に集まる失業者たちがこんな風に噂する情景も、渥美さんは思い浮かべていた。

「こいつはテレビで昔見たことがある。渥美清という奴じゃないか」

 浅草芸人の多くがあれこれジタバタしても結局は花を咲かせず、無名のまま終わったのに対し、渥美さんは死後、国民栄誉賞を受賞するという名誉(?)に授かった。だが、若いころに肺結核という大病を患い、何年間も療養生活を送っただけに、人生の栄達を諦めていた人でもあった。

 芸人は男か女か訳が分からないほうがいい。氏素性など余計な情報はないほうがいい。ドブに頭を突っ込んで死ぬというのが浅草芸人らしい幕の引き方、と渥美さんは思っていたに違いない。

 1996年8月4日。転移性肺がんのため68歳で旅立ってから今年で28年になる。「もうそんなに時間が過ぎたんだ」と思うと呆然とする。関敬六さん(1928~2006)や谷幹一さん(1932~2007)ら親しかった芸人仲間と一緒に東京・新宿にある墓をお参りしたことが懐かしい。

 今回、本稿を執筆するにあたり、命日の数日前だったが久しぶりに墓参りをした。タワーマンションが立ち並び、周囲の風景はすっかり変わった。どこからかセミの鳴き声が聞こえてくる。この日の東京の最高気温は35・6度の猛暑日。暑い夏は亡き人を偲ぶにふさわしい季節でもある。

 墓石に渥美清の名はない。本名「田所康雄」の名が刻まれている。ファンの男性がひとり手を合わせていた。

「8月4日になったら、友人たちとまた一緒に来るんです」

 俳優の三國連太郎さん(1923~2013)がお別れの会の弔辞で「いくら笑っておられても目だけは冷静にひとりひとりを見つめていた」と述べたように、非情なまでの現実主義者でもあった渥美さんだが、亡くなって28年経った今もこうしてファンが訪れることはうれしいに違いない。

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