巨大なスリッパの縁…ジャイアント馬場と元子夫人は、なぜ挙式から入籍まで11年もかけたのか
巨大なスリッパが縁?
今年は全国的に晴れ渡り、天の川のかかった七夕だった。ジャイアント馬場は42年前のこの日、結婚を公表した(当時44歳。1982年7月7日、東京ヒルトンホテルにて)。しかもこの結婚発表は、妻となる元子さんと馬場が出会ってから27年、さらに、極秘に結婚式をあげてから11年後という、遅かりし公表でもあった。今年はジャイアント馬場の没後25周年、そして元子さんの7回忌にあたる。改めて、2人の人生を辿りたい。
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2人の出会いは1955年。高校を中退し、読売巨人軍に投手として入団した馬場が、兵庫県明石市でのキャンプに参加したのがきっかけだった。当時、巨人軍の主力だった千葉茂に連れられ、石油販売会社を営んでいた後援者の自宅に遊びに行った。この後援者とは元子夫人の父親で、よく選手やコーチを招いて激励会を開いていた。この時、自分に合うサイズの巨大なスリッパが用意されていたことに、17歳の馬場が感激。そのスリッパを作ったのが、その家の三女であり、15歳の元子さんだったという逸話が広く知られていた。
縁あって2000年にお話をうかがったところ、元子さんは筆者にこう言った。
「全然違う。だってまず、一度会わなきゃ、足のサイズなんてわからないじゃない」
確かに! どうやらスリッパの件は、翌年も参加した2度目の明石キャンプでの出来事のようで、しかも元子さんが言うには、
「作ったのは2人いた姉ね。小さなスリッパでは気の毒だったし。でも、私がやったのは、せいぜいフェルトを切って貼るくらい」
ところが後日、馬場から届いた礼状の宛名は、「元子さま」になっていた。馬場の方が元子さんを見初めたのだった。二人は静かに交際をスタート、馬場が巨人軍を戦力外となり、大洋にテスト生として入団。風呂場で転倒し腕に大怪我を負った時も、入院先には足繁く通う元子さんの姿が目撃された。
1960年に馬場がプロレスラーに転向した後も、二人は順調に愛を育んだ。英語も堪能な元子さんが旅行会社のハワイ駐在員になると、保養に訪れる馬場との仲は決定的になり1971年、同地で挙式をした。翌72年、馬場が全日本プロレスを旗揚げすると、馬場の住んでいた『リキ・アパート』の隣の部屋に、元子さんが引っ越し、事実上の結婚生活がスタートした。
もっとも、正式に籍を入れたのは、冒頭で紹介した“七夕会見”の約3週間前、1982年6月18日。結婚記念日となるこの日、馬場はテキサス州アマリロで、ブルーザー・ブロディと一騎打ちをしていた。しかも、力道山以来のエースの象徴とされるインターナショナル・ヘビー級選手権(王者はブロディ)だった。さらにこの日は、盟友であるザ・ファンクス(ドリー・ファンクJr、テリー・ファンク)の地元での特別興行であり、スタン・ハンセンやリック・フレアーに加え、当時は新日本プロレスが主戦場だったアブドーラ・ザ・ブッチャーまでも登場。そして何と、元子さんもこの興行を観戦していた。馬場曰く、
「恥ずかしいので、婚姻届は、日本にいる知人に委任状を書いて出して貰った。この日ならバレないだろうと思って……」(※住居のあった渋谷区役所で受理)
馬場は極端なまでの恥ずかしがりやであった。
「馬場さんは強いから」
さて、冒頭で触れた“七夕会見”である。記者の質問に対して馬場は、
「結婚? そう言えば、天龍がするらしいよ」(※同年9月26日に挙式)
「なれそめ? 忘れた」
「どこが良い女かって? さあ、わからないなあ……」
と、はぐらかすばかり。実はこの2年前、2人の仲がマスコミにバレそうになったことがあった。ハワイから帰る飛行機に森進一、大原麗子夫妻が乗っていたこともあり、マスコミが空港に詰め掛けていると悟った馬場は、元子さんと別々に降機し、ことなきを得たという。“七夕会見”もその3日前、「週刊明星」から入籍の事実を直撃されたという事情もあって開かれた。
同席はしなかったが、晴れて夫婦になった元子さんの、書面によるコメントは、以下である。
「主人の役に立つように心がけて行きたいと思います。プロレス界も、難しい時期なので…」
前年、全日本プロレスは新日本プロレスにブッチャーを引き抜かれ、お返しに全日本はタイガー・ジェット・シン、スタン・ハンセンらを引き抜き返し、“レスリング・ウォー”と称されていた時代でもあった。
元子さんは1970年代より、馬場の海外の試合には常に同行し、“ミセス・ババ”と親しまれた。試合となると、刺激の強い展開に、席を外すプロレスラーの妻が多かったのだが、彼女は常にリングサイドで観戦を続けた。関係者が「怖くないの?」と聞くと、こう返した。
「全然。だって馬場さんは、強いから」
筆者は、馬場が新日本から移籍して来たハンセンとの一騎打ち(1982年2月4日)の後の元子さんのコメントが好きである。それまでハンセンのライバルだった猪木と比較されることは避けられず、まして、ハンセンは脂の乗り切った時期ゆえ、馬場には“(負けたら)引退?”などと煽られる中での一戦だった。試合は畢生の名勝負となり、“馬場復活”を印象付けた(結果は両者反則)。元子さんはこう語った。
「みんなが馬場さんを、引退させたがっていただけでしょう?(笑) 私は全く心配してなかった。馬場さんは、自信があるから(ハンセンと)シングルをやるんだと思ったし」(元子さん)
後年、知己の記者がこの試合について聞いた時は、更に詳しく、こう語っている。
「あのシリーズ。ハンセンが全日本に参戦すると、みんな彼にパワーで対応してた。でも、みんなハンセンにかなわなかった。そしたら、(最終戦で戦った)馬場さんは、ひたすら体を密着させて、腕を攻めていたわよね。ハンセンにパワーを出させないようにしていたし、自分もパワーで対抗しようとはしなかった。私は、『馬場さんは、やっぱり頭がいいなあ』って」
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