アラン・ドロンが「僕はひとりぼっち」と悲痛な叫び 事実婚だったヒロミさんにSOSの電話

エンタメ

  • ブックマーク

“僕は独りぼっちなんだよ”

 今年1月、アヌーシュカと弁護士が発表した声明も気になるという。

「そこには“昨年8月末をもって父は治療をやめた”とありました。それで“やっぱりそうだったのか”と。私はアランが心配でたまりません」

 その後、ドロンとの電話はつながらず、ヒロミさんが再び声を聞いたのは3月24日。今度はドロンから電話があった。奇しくもこの日はヒロミさんの誕生日。34年前、二人が初めて熱いキスを交わした日である。

「懸命に声をふり絞るように“僕は独りぼっちなんだよ”と訴えるんです。そして何度も“会いたい、会いたい”と言ってくれました」

 他方、アントニーとアヌーシュカは、ヒロミさんを「父の金目当てで近づき、結婚するよう圧力をかけ続けた」と非難していた。

「私がドゥシーに住むようになった時、アランに“何か仕事をさせて下さい”とお願いすると“心配するな。いつか結婚するから。死ぬ前には必ず結婚するから”と。私が“死ぬ前って、いつ死ぬか分からないじゃないの”とすねてみせると“僕は自分がいつ死ぬかが分かる”と言う。その時はそれで終わりましたが、しばらくして“将来、あなたの子どもたちが私に何をするか分からない。追い出されたりしないうちに、PACS(性別を問わず共同生活を営むカップルが結ぶ民事契約)でもいいからきちんとしてほしい”とお願いしたことがありました」

「すべて犠牲にして愛し続けただけ」

 PACSは内縁関係を法的に認めるが、パートナーの法定相続や遺留分の権利はない。そのため、PACSを利用したとしても相続を希望する際は遺言書などが必要となる。

「23年2月、私はアランに長い手紙を書きました。“何もする気がないのならはっきりさせてほしい。私を守る気がないなら、便利屋として扱っているだけなら出ていきます。じっくり考えてから返事を下さい”と。それを読んだアランは、4月の下旬ごろに“子どもたちに問題があることは分かった。結婚は可能だよ”と言ってくれました。そのうえで“信じないなら録画しよう”と、ビデオ撮影をしました」

 そして最後にヒロミさんは言う。

「私はアランと一緒に生きていきたいと思っただけ。結婚やPACSを求めたのは、アランとともに生きた人生の証しとの意味合いもありました。17年間、彼の望んだ通りに仕事を辞めていました。家族、友人、若い頃の夢もすべて犠牲にして、ただ彼が健康で、そして幸せでいられるよう愛し続けただけなんですけどね」

 思い出が詰まったドゥシーからの放逐、ドロンとの離別からちょうど1年。ヒロミさんはいまも愛する人と再会する日を待ち続けている。

 前編「『食事会に私だけ招待されず…』 アロン・ドロンと事実婚だったヒロミさんが明かす、子どもたちからの非道な仕打ち」では、19年、脳血管障害でドロンが倒れた際の様子や、ヒロミさんとドロンの子どもたちの“すきま風”について報じている。

 中編「『自宅から着の身着のままで放り出され…』 アラン・ドロンと事実婚だったヒロミさんが受けた凄絶な仕打ち」では、突如自宅から放り出されるなど、ドロンの子どもたちがヒロミさんに行ってきたひどすぎる仕打ちについて報じている。

アラン・ドロン
俳優。1935年、フランス・セーヌ県で映画館を営む父と薬剤師の母との間に生まれる。17歳で海軍に入隊し、第1次インドシナ戦争に従軍。除隊から2年後の1957年に映画「女が事件にからむ時」で銀幕デビュー。24歳の時に主演した「太陽がいっぱい」は、日本でも大ヒットを記録した。

週刊新潮 2024年8月1日号掲載

特集「続・独占告白 『太陽がいっぱい』の日々暗転し…『アラン・ドロン』が『脳卒中』『がん』治療中止で死の淵」より

前へ 1 2 3 次へ

[3/3ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。