「食事会に私だけ招待されず…」 アラン・ドロンと事実婚だったヒロミさんが明かす、子どもたちからの非道な仕打ち

エンタメ

  • ブックマーク

「意識を取り戻したアランが、最初にほほ笑みかけた相手は私」

 PACSとは、性別を問わず共同生活を営むカップルが結ぶ民事契約のこと。当事者が互いの権利や義務を定める契約書を作成し、裁判所が“内縁関係”に法的なお墨付きを与える、フランス特有の制度だ。

「意識を取り戻したアランが、最初にほほ笑みかけた相手は私でした。その後は自由に面会ができましたが、子どもたちは不満だったようです」

 手術から20日が過ぎた19年7月31日、ドロンはリハビリ治療のためにスイスへ移った。ヒロミさんは転院手続きを担ったアヌーシュカにドロンとの面会を繰り返し頼んだが、彼女はかたくなに拒否。ヒロミさんとドロンの再会は、転院から2週間後の8月13日までかなわなかった。

 ちなみに、長男のアントニー(59)がAFP通信で、ドロンが「脳卒中を患ってスイスで療養中」と明らかにしたのはこの5日前のことだった。

「アランは50日ほどのスイスでの入院を経てドゥシーに戻りましたが、3カ月ほど車椅子生活を余儀なくされました。住み込みの看護師が雇われましたが、アランとはソリが合わず1カ月で出て行ってしまいました。その後、彼の身の回りの世話はもちろん、普段の買い物、食事の用意、犬猫の世話に至るまで、私がこなしていました」

ドロンの面倒を見る様子のない子どもたち

 ヒロミさんはとにかく、ドロンの健康管理に努めたという。

「気分転換にドライブに出かけたこともありました。子どもたちは一人として手伝いには来てくれず、たまに顔を出しても、アランとちょっとお喋りしただけで帰ってしまう。父親の世話をする私への気遣いはみじんもありませんでした。私を使用人のように見なしていたのかもしれません」

 ヒロミさんの献身的な支えにより、ドロンのリハビリは順調に進み、21年7月にはTV局によるロングインタビューが可能になるまでに回復した。この年の9月、二人は連れ立って、ドロンの友人で俳優のジャン=ポール・ベルモンドの葬儀に出席している。常にドロンに寄り添っていたヒロミさんと3人の子どもたちとの確執が表面化するのは、それからわずか2カ月後だった。

 事情を知る地元紙記者が解説する。

「11月8日、ドロンに会いに来たアントニーとヒロミが激しい口論になった。その2カ月前にドロンが邸内で転倒し、頭を9針ほど縫う大けがを負って入院したのですが、アントニーは“ヒロミがその事実を自分や妹たちに知らせなかった”と激怒。メディアに“子どもの私たちに連絡するのは当然”“父に何かあったらどうするつもりだったのか”と、ヒロミへの不満をぶちまけたのです。多くのフランスメディアは、この一件こそがヒロミが刑事告訴された最大のきっかけだと見ていました」

 ヒロミさんは次のように反論する。

「ひどい話です。アランが転倒したのは9月17日の夕食後。私はすぐに救急に連絡して病院に搬送してもらいました。あの時のアランは完全に意識があり、救急隊員に冗談を言っていたほど。私が“アヌーシュカに電話した方がいいんじゃない?”と勧めると“たいしたケガじゃないし、夜も遅いから明日にするよ”と言う。翌朝、病院で“娘に電話したの?”と尋ねると“いや、まだだ”と。いくら言っても聞かないので、私がアヌーシュカに知らせたんです」

 中編「『自宅から着の身着のままで放り出され…』 アラン・ドロンと事実婚だったヒロミさんが受けた凄絶な仕打ち」では、突如自宅から放り出されるなど、ドロンの子どもたちがヒロミさんに行ってきたひどすぎる仕打ちについて報じている。

 さらに後編「アラン・ドロンが『僕はひとりぼっち』と悲痛な叫び 事実婚だったヒロミさんにSOSの電話」では、悪性リンパ腫と闘うドロンがヒロミさんに必死の思いで伝えたSOSの言葉について紹介している。

アラン・ドロン
俳優。1935年、フランス・セーヌ県で映画館を営む父と薬剤師の母との間に生まれる。17歳で海軍に入隊し、第1次インドシナ戦争に従軍。除隊から2年後の1957年に映画「女が事件にからむ時」で銀幕デビュー。24歳の時に主演した「太陽がいっぱい」は、日本でも大ヒットを記録した。

週刊新潮 2024年8月1日号掲載

特集「続・独占告白 『太陽がいっぱい』の日々暗転し…『アラン・ドロン』が『脳卒中』『がん』治療中止で死の淵」より

前へ 1 2 次へ

[2/2ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。