【パリ五輪】「92年ぶり」メダル獲得の馬術 “日本唯一のメダリスト”だった「バロン西」とは何者か

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 日本馬術チームが92年ぶりの快挙を成し遂げた。

 総合馬術団体で日本は銅メダルを獲得。1932年ロス五輪の馬術大障害で金メダルに輝いた「バロン西」こと西竹一(たけいち)以来の偉業だ。

 これまで馬術で日本勢唯一のメダリストだった「バロン西」を伝説たらしめた天賦の才と、外交にまで影響を与えた圧倒的な存在感についてご紹介する。

(「週刊新潮」2021年7月22日号をもとに加筆・修正しました。日付や年齢、肩書などは当時のものです。)

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 バロン西、本名・西竹一(たけいち)は1932年ロス五輪の馬術大障害で金メダルを獲得、全米の脚光を浴びた。

 ロス五輪で日本は計7個の金メダルを獲得している。水泳5個、陸上1個。しかし他の誰も西ほどアメリカ社会で騒がれはしなかった。西だけがロサンゼルスタイムズに大見出しで報じられ、市議会で名誉市民に推され、自動車会社から五輪記念で発売された高級車を贈られた。ハリウッドで祝賀会が開かれ、女優たちが西を取り囲んで離さなかった……。

 バロンと呼ばれたのは、父の爵位を受け継ぎ、実際に男爵(バロン)だったからだ。父が他界し、10歳で爵位と麻布の広大な屋敷や別荘など莫大な財産を相続した西は、学校では手のつけられない“暴れん坊”だったという。

 父の死後はお金持ちだが孤独の身。寂しさもあってか、西は空気銃に凝り、カメラに凝り、やがてオートバイのスピード感に魅了された。その後、本気になったのが馬術だ。西の心を捉えたのはマシンではなく、生き物だった。

 陸軍士官学校から陸軍の花形的存在だった騎兵第1連隊に入隊する。そこで乗馬に専念する。

 理詰めの勉強を好まない西だが、周囲に天才と感じさせるさまざまな要素を秘めていた。24歳で習志野の陸軍騎兵学校に入学した時、教官たちは乗馬に理想的な西の体形に目を見張った。身長175センチ、体重70キロ、足が長く、腰幅が広い。勘も鋭く、馬を走らせると、そのスピードをピタリと言い当てた。乗り方も先鋭的だった。当時は「両膝で馬の胴を締めろ」と教えられたが、西は力の強い太腿ではさみ、馬をグングン前に押し出した。それは戦後、世界の主流になった。

ウラヌスが止まった

 ロス五輪で馬術は全日程の最終競技だった。ロサンゼルス・メモリアル・コロシアムのフィールドに障害が配置され、10万5千の大観衆が見つめる中、馬術大障害(別名・優勝国賞典競技)が始まった。団体戦もあり、このレースに勝った国が「真の覇者」と呼ばれる格別な競技。全長1050メートル、計19個の障害を越えて2分37秒4以内に走破する。この日の障害設定は難しく、ゴールに到達できない選手が続出した。

 日本からは今村安少佐、吉田重友少佐、西の3人が出場予定だったが、吉田は事前の練習中に転倒し出場できなかった。実績からチームの期待は今村に向けられた。ところが今村は、第10障害までに愛馬ソンネボーイが3回も飛越拒否をし、失格になってしまった。頼みの綱はウラヌスに乗る西だけになった。

 西の直前、地元アメリカのチェンバレン少佐が快走。減点わずか12でトップに立った。そんな熱気の中、西は1年前イタリアで購入した身体も蹄も大きな愛馬ウラヌスと最初の飛越に向かった。鮮やかな跳躍、見事な呼吸で西とウラヌスは次々と障害をクリアした。

 第6障害、わずかにウラヌスの後ろ足が水濠に落ちた。初めての減点。だが、勢いは止まらない。ピンチは第10障害だった。黒々としたユーカリの横木に怯んだのか、踏み切らずに止まった。大観衆の溜息がこだまする。今村が失格した難所で西も敗れ去るのか。西は冷静に手綱を引いて大きな身体のウラヌスを反転させ、再び障害に挑むと見事に飛び越えた。場内が固唾をのんで見つめる中、西とウラヌスは大きな減点もなくゴールに飛び込んだ。額の白い星が輝いている。審査に時間がかかった。しばらくして得点が表示された。減点8。その瞬間、西がトップに躍り出た。スタジアムは、日本人騎手が起こした奇跡に熱狂した。

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