「Tinder日記」をまとめた本が話題の葉山莉子が明かす、戻りたくても戻れない「あの頃」とは

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典型的な暇な大学生を“演じて”いた

 Tinder上で男性たちに日記を送り、それらを一冊にまとめた書籍『ティンダー・レモンケーキ・エフェクト』が話題の葉山莉子さん。学生時代、「サボることがいつか人生の大切な思い出になるに違いない」と信じていた彼女がつづる、今はなき飯田橋の名画座にまつわる思い出とは。

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 つるつるとひかる、やわらかなみぞに触れ、ふかふかとした生地を口の中に入れれば、さっぱりとして甘過ぎず、さわやかにバニラが香るカスタードクリームが一気に流れ込んでくる。そして、この瞬間はあっという間に過ぎ去ってしまう。おいしいものとの対峙はいつも刹那だ。気が付けば手の中からなくなってしまう。亀井堂のクリームパンはそういう類いの食べ物だった。

 大学時代、飯田橋でバイトをしていたわたしはよく授業をサボって、ギンレイホールに映画を観に行った。2本立てで4時間もあるというのに、ほとんど眠っていたことだってあった。わたしは典型的な、暇な大学生だった。というか、典型的な暇な大学生を演じていた。こうした時間はきっといましかないだろうと思っていたから、サボることがいつか人生の大切な思い出になるに違いないと思っていた。そんなばかげた考えでも、結果としていま文章に書きしたためているのだから、わたしの予想は的中したのだけど。

映画体験は甘い香りとともに

 飯田橋から長い長い坂道を登って、まだかと思うほどまだ進み続けて、赤城神社を越えると、亀井堂があった。街に愛されるパン屋という風貌で、グリーンに染められた入り口を見るたびに、わたしはいつもうれしくなった。手作りのパンがたくさん並ぶ店内で、いちばんの人気はクリームパン。クリームパンとぶどうパンを片手に、ギンレイホールに戻り、2本立ての映画を観るのがサボりのルーティンだった。

 ギンレイホールの入り口には上映される映画タイトルの手描き看板があった。どの名画座もその名画座らしさというものがあるけれど、ギンレイホールはまちがいなく、原色の下地に特徴的なタッチで描かれた看板がそれをかたちづくっていた。広くて天井高の劇場に入ると、赤地の椅子が配置され、正面にはどーんとスクリーンが張られている。視界いっぱいにスクリーンを感じたいから、いつも前方の端を陣取っていた。暗闇でビニールの音が鳴らないようにこっそりとパンをもぐもぐ食べる。わたしのギンレイホールでの映画体験はあのクリームパンの甘い香りとともにある。悪いことといえば授業をサボるくらいしかできなかったわたしの唯一の背徳的な遊びであった。あの香りは背徳的というよりも健康でやさしさにあふれたものだったが。

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