ヤクルト投手から競輪選手に転身した松谷秀幸さんの告白 「野球選手時代はプロ意識に欠けていた」手取り9000円のアルバイトを思い出す時

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いまだ消えぬプロ野球選手への羨望

 本人の言葉にあるように、常に落車の危険と隣り合わせでケガばかりしてきた。指が取れそうになったことは何度もあるし、骨折は日常茶飯事である。

「鎖骨は、左右併せて10回以上は骨折しています。肋骨を折って、肺気胸も経験しました。プロ野球選手時代は、“肩が痛いな”とか、“ひじに違和感があるな”と思うと、大事をとってすぐに休んでいましたけど、競輪選手の場合はそんなことなんか言っていられないですから。今から思えば、“プロ野球時代はぬるかったな”って思いますね」

 どんなに練習がハードでも、どんなに故障に見舞われようとも、松谷は「そんなことでは決してへこたれない」と力強く語る。なぜなら、それ以上に過酷な経験をかつて味わっているからだ。

「サラリーマンを辞めて、競輪学校に入学するまでの2カ月ほど、人生で初めてのアルバイトをしました。日中は工事現場で、夜は東名や保土ヶ谷バイパスなど、高速道路で働きました。冬の夜中は、いくら着込んでも本当に寒いんです。自分の真横を車が猛スピードで通り過ぎるたびに寒風に吹き付けられます。それで手取りは9000円ほどでした」

 このとき松谷は「お金を稼ぐのは本当に大変なことだ」と痛感すると同時に、「なぜ、自分はプロ野球時代にもっと頑張らなかったのだろう?」と自責の念に駆られたという。

「夜中の東名で、“オレは何をやっているんだろう?”と考えたことは何度もありました。その後、何度もあのときのことを思い出します。今でも、高速道路で働いている人を見ると涙が出ます。だから、いくら練習がきつくても、いくら故障したとしても、あのときのことを考えれば乗り越えられるんです」

 プロ野球選手時代は、一度も一軍マウンドを経験できなかった。24歳で戦力外通告を受け、サラリーマン生活は1年も続かなかった。そして、人生初めてのアルバイトでは、今までに経験したことのない苦労を味わった。こうしてつかんだ競輪選手という地位を、絶対に手放したくはない。「オレはもう二度と失敗はしたくないんだ」という思いが、松谷の胸の内には強烈に息づいている。デビュー以来、15年が経過した。現在ではS級1班に在籍し、競輪界の最前線で戦い続けている。

「いや、僕は成功したとは思っていません。やっぱり、野球の世界では成功できませんでしたから。昔お世話になった方、昔の仲間が、今でもユニフォームを着てプロの世界で戦っています。その姿を見ていると、やっぱりうらやましいです。野球界では成功できなかった僕は、今は違う世界だけど、せめて少しでも彼らに近づきたい。そんな思いで日々を過ごしています」

 ときおり、「オレはいつまでこんなに厳しい練習を続けなければいけないのだろう?」と自問自答することもある。それでも、「オレにはこれしかないんだ」という思いで、松谷は今日もペダルを漕ぐ。たまの休日には、ジャイアンツ球場でファームの試合を見ることもあるという。

「二軍戦を見ていると、かつての自分のような選手ばかり目につきます。“ここで結果を出さないと、もう来年はないぞ”と思ったり、“もっと頑張らなきゃダメだぞ”って、心の中で応援したりして いるんですけど、当人たちはなかなか気づかないですよね。やっぱり、一度どん底を経験して初めて理解できることもあると思います」

 どん底を経験した男の言葉が、重く静かに響き渡った――。(文中敬称略)

第1回記事では、憧れのプロ野球選手になったものの、ケガに苦しみリハビリに励んだ日々と、戦力外通告を受けた当時の状況など。

長谷川 晶一
1970年5月13日生まれ。早稲田大学商学部卒。出版社勤務を経て2003年にノンフィクションライターに。05年よりプロ野球12球団すべてのファンクラブに入会し続ける、世界でただひとりの「12球団ファンクラブ評論家(R)」。著書に『いつも、気づけば神宮に東京ヤクルトスワローズ「9つの系譜」』(集英社)、『詰むや、詰まざるや 森・西武 vs 野村・ヤクルトの2年間』(双葉文庫)、『基本は、真っ直ぐ――石川雅規42歳の肖像』(ベースボール・マガジン社)、『大阪偕星学園キムチ部 素人高校生が漬物で全国制覇した成長の記録』(KADOKAWA)ほか多数。

デイリー新潮編集部

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