ヤクルト投手から競輪選手に転身した松谷秀幸さんの告白 「野球選手時代はプロ意識に欠けていた」手取り9000円のアルバイトを思い出す時

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並みいるエリートたちを退け、デビュー戦で1着に

 ヤクルト時代は独身寮で個室を与えられていたが、競輪学校時代はカーテンで仕切っただけの4人部屋で過ごした。伊豆の修善寺で修行僧のような生活が続く。学生時代から自転車競技に親しんできた若きエリートたちの中で、松谷は臆することなく彼らに教えを請うた。

「周りは18歳ばかりだから、普段の話を聞いていると、“こいつらガキだな”って思うことばかり。でも、彼らは中学、高校から自転車に慣れ親しんでいるエリートなので、僕よりも圧倒的に知識も技術も、経験もありました。だからいつも、“ダッシュはどうすればいいの?”とか、“どんな意識で乗っているの?”と、よく質問しましたね。やっぱり、自分は出遅れていることはわかっていたし、もっとうまくなりたかったですから」

 2009(平成21)年3月、競輪学校を卒業した。デビューは7月に決まった。このとき、師匠の佐々木龍也から、こんな言葉を贈られている。

「いいか、今はまだ同期の連中の方が実力が上かもしれない。でも、デビュー戦までのこの3カ月間でいくらでも巻き返しができる。これからの3カ月はさらに死に物狂いでやれ」

 この言葉は、松谷にとっての福音となった。

「僕は96期なんですけど、競輪学校時代にまったく勝てなかった同期がたくさんいました。でも、師匠の忠告を守って、デビューまでの3カ月間を必死に練習しました。きっと、同期の連中は19~20歳だから、ようやく厳しい競輪学校の生活から解放されて、多少の気の緩みもあったと思います。でも僕はこの3カ月間は、競輪学校時代よりもさらに自分を追い込みました。それがよかったんだと思います。どんどん実力がついているのが、自分でもわかりました」

 ついに迎えたデビュー戦には96期の同期生も出場した。その中で松谷は1着となった。華々しいデビューを飾ったのである。このとき初めて、「もしかしたらやっていけるかもしれないな」という思いが芽生えたという。以来、松谷は来る日も、来る日もペダルを漕ぎ、レースに出場する日々を過ごしている。

「月に最低2レースは出場しなければいけないんです。でも、1本出るだけでサラリーマン時代の1カ月分以上の賞金を手にすることができます。もちろん、レースで勝てば、さらに賞金は上乗せされます。ケガが本当に多い大変な仕事ですけど、その分、自分の身体でお金を稼ぐことができる、やりがいのある仕事だと思いますね」

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