ヤクルト投手から競輪選手に転身した松谷秀幸さんの告白 「野球選手時代はプロ意識に欠けていた」手取り9000円のアルバイトを思い出す時

  • ブックマーク

 24歳で戦力外通告を受け、サラリーマンに。しかし、胸の内にはくすぶり続ける想いがあり、生活も苦しかった。そんな時、通勤途中でふと見かけた競輪学校(現・日本競輪選手養成所)の生徒募集――。ノンフィクションライター・長谷川晶一氏が、異業種の世界に飛び込み、新たな人生をスタートさせた元プロ野球選手の現在の姿を描く連載「異業種で生きる元プロ野球選手たち」。第14回は元ヤクルトスワローズの投手で、現在は競輪選手として活躍する松谷秀幸さん(42)です。第1回記事では、プロ入りから引退、そして競輪学校を目指すまでを振り返りました。第2回では、想像を絶する競輪選手として再スタートした日々を伺います。(全2回の第2回)

酸欠状態で嘔吐しながら続けた猛練習

 プロ野球選手を引退し、「サラリーマンとして生きていこう」と決意した一方で、くすぶり続ける思いが常にあった。朝から晩まで働いても、家族4人を養うことができないという現実もあった。そんなある日、帰りの電車の中で「競輪学校 生徒募集」の中吊り広告を見つけて、松谷秀幸は一念発起した。

「失うものはないわけですから、もうやるしかなかった。“もしもダメだったら……”と考えることもなかったです。“やるしかないんだ、絶対に失敗できないんだ”という思いだけでした。野球で成功できなかったんだから、もうこれ以上失敗はしたくない。あんな思いは二度としたくない。それだけでした」

 退職までの間は、通常通り、始発で横浜の自宅を出て、日中は千葉県内のパチンコ店を回り、ヤクルト商品の営業に励んだ。仕事を終えた後は深夜まで、入学試験対策の体力トレーニングに取り組んだ。このとき、松谷に手を差し伸べてくれたのが、「それまで何の面識もなかった」元横浜ベイスターズの野村弘樹だった。

「ベイスターズから競輪選手に転向した方を知っていて、その関係で野村さんから知り合いの競輪選手を紹介されました。それが、僕の師匠となる佐々木龍也さんでした」

 仕事を終えて帰宅後、すぐに佐々木の下に駆けつけ、二次試験対策のエルゴメーターと向き合う日々を過ごした。最高速度や回転数を測定する固定式の自転車をこいで運動負荷心電図などを計測するエルゴメーターを用いたパワーマックス系のトレーニングは、プロ野球選手時代に得意としていた。松谷は苦笑いを浮かべながら続ける。

「ヤクルトの選手の中ではかなりいい記録を残していたんですけど、競輪の世界では“話にならないよ”というレベルでした。野球選手で900ワットは、まあまあいい成績なんですけど、競輪選手の合格基準は確か1800ワットでしたから(笑)」

 深夜、佐々木の下で猛練習を積んだ。ひたすらエルゴメーターを漕ぎ続けていると酸欠状態で頭が真っ白になる。呼吸を整えるために外に出ても、その場で吐いてしまう。この頃、「不審者がいる」と通報され、駆けつけた警察官から「大丈夫ですか?」と声をかけられたこともあった。それでも松谷は耐え抜いた。そして、競輪学校入学試験を突破した。18歳の合格者に交じって、25歳の松谷は最初の壁を突破したのである。

次ページ:並みいるエリートたちを退け、デビュー戦で1着に

前へ 1 2 3 次へ

[1/3ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。