元ヤクルト投手(42)は、なぜサラリーマン生活を経て競輪選手になったのか

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初めて知る現実の大変さ、社会の厳しさ

 すでに松谷は結婚していて、幼稚園に通う2人の子どももいた。義理の父は「思う存分、現役にこだわってほしい」とトライアウト受験を勧めた。しかし、自分の右腕がすでにプロのレベルにないことは自身がよくわかっていた。球団から提案されたのは「ヤクルト本社勤務」という新たな道だった。妻に相談すると、「安定しているからいいと思う」と言ってくれた。松谷は、その申し出を受けることに決めた。

「でも、正直言えばしっかり考えて決めたわけではないんです。あの頃は人生投げやりになっていたので、“とりあえず仕事がもらえるのならいいか”という思いでした。小さな子どもも2人いたので、なおさらそんな思いでした」

 勤務地は千葉に決まった。始発で横浜の自宅を出発し、帰宅するのは深夜に及ぶこともあった。千葉県内のパチンコ店を回って、景品としてヤクルト商品を置いてもらったり、店内に自動販売機を設置してもらったり、地域の野球教室の講師を務めたり、仕事は多岐にわたり、休む暇もない日々だった。しかし……。

「朝早く満員電車に乗って会社に行って、昼間は県内のパチンコ屋さんを回って、帰宅するのは夜中という毎日でした。だけど、それでも家族4人を養っていくことは大変でした。妻から、“これでは生活ができない”と相談されることがとても辛かった。でも、副業をする時間もない。この頃はストレスばかりを感じていました」

 そんなある日のこと。通勤途中の京葉線でのことだ。松谷は1枚の中吊り広告に釘付けとなった。

「4月に仕事を始めて数カ月した頃だから、7月か8月のことだったと思います。車内で競輪学校(現・日本競輪選手養成所)の生徒募集案内を見つけました。以前は、受験に際して年齢制限があったのですが、それがなくなり、僕でも受験できることを知ったのです」

 厳しいリハビリを続けていた頃、自転車を漕ぐパワーマックス系のトレーニングは何度も経験していた。他の選手の誰よりも高い数値を記録して、「松谷は競輪選手になった方がいい」と言われたこともあった。もちろん、冗談ではあったが、そのときの記憶がよみがえる。実家の母からは「あなたは身体を動かす方が向いている」と勧められ、妻からも「もう一度、挑戦してほしい」と言われた。

「実際、会社の給料では生活はできませんでした。妻からお金の悩みを聞くのも辛かった。だから、迷いなく挑戦することを決めました。このときにはすでに世の中の厳しさ、現実の大変さを痛感していたので、“もう二度と失敗できないぞ”という思いでした」

 会社の上司に思いを告げた。「お前は野球でもダメで、会社員生活も1年ももたない。そんな人間が成功するはずがないだろう」という言葉が胸に刺さった。

「部長からは“現実を見ろ”と言われました。“頑張れよ、応援しているぞ”ではなく、“お前、バカだな”という言葉でした。それは正論だと思います。でも、それで一層、“絶対に失敗できないんだ”という思いが強くなりました」

 1年に満たないサラリーマン生活となった。25歳にして、新たな挑戦が始まる。「今度は絶対に失敗できない」、背水の陣での戦いが始まろうとしていた――。(文中敬称略)

第2回記事では、18歳の若者ばかりの競輪学校に飛び込み、酸欠状態で嘔吐しながらの猛練習など、プロ野球でも経験しなかった過酷な日々を語る。

長谷川 晶一
1970年5月13日生まれ。早稲田大学商学部卒。出版社勤務を経て2003年にノンフィクションライターに。05年よりプロ野球12球団すべてのファンクラブに入会し続ける、世界でただひとりの「12球団ファンクラブ評論家(R)」。著書に『いつも、気づけば神宮に東京ヤクルトスワローズ「9つの系譜」』(集英社)、『詰むや、詰まざるや 森・西武 vs 野村・ヤクルトの2年間』(双葉文庫)、『基本は、真っ直ぐ――石川雅規42歳の肖像』(ベースボール・マガジン社)、『大阪偕星学園キムチ部 素人高校生が漬物で全国制覇した成長の記録』(KADOKAWA)ほか多数。

デイリー新潮編集部

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