元ヤクルト投手(42)は、なぜサラリーマン生活を経て競輪選手になったのか

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大ベテラン伊藤智仁と二人三脚でのリハビリ

 この頃、松谷にとってのリハビリパートナーとなったのが、「高速スライダー」で球界を席巻したベテランの伊藤智仁である。93年に鮮烈なデビューを飾り、この年の新人王を獲得した伊藤だが、相次ぐ故障に苦しめられ、数度の手術、そしてリハビリの日々を過ごしていた。松谷は言う。

「いつも智さん(伊藤)と一緒にリハビリをしていました。というよりは、智さんに引っ張ってもらっていました。当時、僕は寮で暮らしていたんですけど、朝早く智さんが僕の部屋にやってきて、“松谷、行くぞ!”って。モチベーションも下がっていたし、ほとんど効果の見えないリハビリにヤル気をなくしていたんですけど、智さんに引っ張られて、僕はただついていく形で練習に出ていました」

 ピッチング練習ができないから、下半身強化を主眼としてひたすらランニングに励んだ。気がつけば、2人の走路の芝ははげ、「伊藤ロード」と「松谷ロード」ができていた。伊藤の叱咤激励を受け、出口の見えない暗闇の中をもがき続けた。それでも、まったく光明が差さぬまま、時間だけが過ぎていった。

「今から思えば、プロ野球選手時代にはまったくプロ意識が欠けていました。危機感がないまま、“あっ、また今年もクビにならなかった”という思いで、時間だけが過ぎていきました。たまに、“もしかしたら、このまま順調にいけば投げられるかもしれない”というときもあるんですけど、やっぱり投げることができない。そんなことばかり続きました」

 リハビリパートナーだった伊藤も、03年限りで現役を引退し、二軍のピッチングコーチとなっていた。このときもまた、松谷には忘れられない思い出がある。

「正直言って、もうチームに僕の居場所はありませんでした。でも、たまに投げられる状態のときに、智さんは僕のことを積極的に使ってくれました。監督には監督なりの考えもあったはずなのに、智さんは“松谷を使ってほしい”と言ってくれたようです。その結果、自分の仕事を失ってしまうかもしれないのに、僕に何度もチャンスが回ってきました」

 それでも、松谷は結果を残すことはできなかった。ベンチから伊藤がマウンドにやってくる。自分へのふがいなさだけが松谷には募っていく。

「マウンド上で智さんから、“もう、野球なんて辞めてしまえ!”と何度も言われました。わかっているんです、僕を発奮させようという気持ちだということは。でも、すでに僕のメンタルは崩壊していました。だから、“そうだよな、やっぱりオレにはこの世界はムリなんだよな”っていう気持ちばかりでした」

 06年オフ、松谷は一度も1軍のマウンドを踏むことがないまま、戦力外通告を受けた。24歳になったばかりの秋の日のことだった。

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