元ヤクルト投手(42)は、なぜサラリーマン生活を経て競輪選手になったのか

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 ノンフィクションライター・長谷川晶一氏が、異業種の世界に飛び込み、新たな人生をスタートさせた元プロ野球選手の現在の姿を描く連載「異業種で生きる元プロ野球選手たち」。第14回は、元ヤクルトスワローズで投手をしていた松谷秀幸さん(42)です。現在は競輪選手として活躍する松谷さんは、6つに分かれる競輪選手のランクの中で、上から2番目のS級1班でレースに出場しています。野球から競輪へ、選手活動の場を変えた理由は何か。第1回の記事では、プロ入りから怪我に苦しんだ選手生活、そして引退までを伺います。(全2回の第1回)

プロ野球からプロ競輪選手への転身劇

 せっかくつかんだ「プロ野球選手」という地位を、相次ぐ故障のために手放さざるを得なかった。いや、たとえ故障がなかったとしても、自分は何も結果を残すことはできなかったのではないか? プロ野球の世界から離れて20年近くが経過し、不惑を過ぎた今、松谷秀幸はそう考えている。現在ではS級1班に在籍し、競輪界の最前線で戦い続けている彼は白い歯を見せながら 、「あの頃はまったくプロ意識に欠けていましたね……」と言った。

 沖縄・興南高校でエースピッチャーとして活躍し、2000(平成12)年ドラフト3位指名を受けて、ヤクルトスワローズに入団した。プロでやっていく自信はまったくなかったが、女手一つで育ててくれた母のためにも、自分の右腕一本で戦っていくしかなかった。しかし、プロ入り最初のキャンプで、自信は粉々に砕け散った。

「最初にブルペンに入ったときに、僕の左隣には石井一久さん、右隣には五十嵐亮太さんがピッチングをしていました。その瞬間、早くも“すごい世界に入ってしまった、これは無理だな”って感じてしまいました」

 後に、ともにメジャーリーガーとなる両先輩のボールに圧倒された。それでも、地道なトレーニングを積んで、一軍マウンドでの活躍を目指していた。しかし、プロ2年目に右ひじを負傷する。病院に検査に行くと、「靭帯断裂」と診断された。

「20歳になる頃だったので何も知識がないまま病院に行き、いきなり《靭帯断裂》と診断され、球団のトレーナーさんと相談した結果、“オペをしよう”ということになりました。すぐに靭帯移植が決まって、その瞬間、“あぁ、もう終わったな”と思ったことを覚えています。手術をしても、本当に投げられるかどうかわからなかったので、この頃は不安ばかりの毎日でした」

 ドラフト同期で、松谷と同じ高卒でプロ入りした坂元弥太郎はプロ2年目に早くも一軍デビュー、プロ初勝利を飾り、後に打点王を獲得する畠山和洋は二軍で着々と実績を残しつつあった。

「弥太郎とも畠山とも、この時点で早くもかなりの差をつけられていました。“何やってるんだろ、オレ?”って、いつも思っていましたね。満足に練習することもできずに、ただリハビリだけをしている毎日でしたから。“何で、オレだけがこんな目に”という思いはずっと消えませんでした」

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