【光る君へ】彰子が入内して悩みが絶えず… “危篤”が描かれた道長は、何度も倒れる病弱体質だった

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序列を超えて昇進したという疚しさ

 じつをいえば、道長はそれ以前から、困難な状況になるたびに倒れていた。最初に記録があるのは永祚元年(989)7月22日、まだ20代前半のころで、『小右記』によれば、病気を理由に朝廷の業務を早退したという。

 その後、しばらく記録がないが、権力のトップに昇ってからは頻繁だ。長徳3年(997)3月、道長の姉で一条天皇の母である東三条院詮子(吉田羊)の病気の平癒を願って、大規模な恩赦が実施された。このとき、前年に流罪になった定子の兄弟の伊周と隆家(竜宮涼)も赦免され、都への帰還を許された。

 道長が病気になった記録が9年ぶりに現われるのは、そのころである。『権記』には、6月8日の夜中に道長が発病し、一条天皇が心配して、蔵人頭(天皇の秘書官長)である行成を見舞いに向かわせた、という旨が記されている。政敵の復帰が精神的によほど応えたのではないだろうか。

 それからわずか1カ月半後の7月26日、今度は「瘧病」、すなわち現代のマラリアで倒れている。道長は7月5日、除目(諸官職を任じる儀式)を行って藤原公季を内大臣に据えていた。これは道長(左大臣)、顕光(右大臣)、公季(内大臣)の3人で大臣職を固め、伊周が復帰しても上級の公卿にさせないための人事だったと思われる。その準備には激務が続いただろう。免疫力が弱ったところで感染症に襲われたのかもしれない。

 年が明けて長徳4年(998)3月に道長を襲った腰病は、とくにひどかった。『権記』によれば、3月3日に行成が見舞いに行くと、道長は出家を希望した。天皇は却下したが、道長は3度にわたって出家の意志を申し出たほどだった。『本朝文粋』に収められている道長の辞表は、次のようなものだった。

「臣、声もとより浅薄にして、才知は荒蕪たり。偏に母后の同胞たるを以て、次ならず昇進す。また父祖の余慶に因りて、匪徳にして登用される(私は、声望はもともと薄く、才知や家柄もたいしたことはありません。単に、お上の母后である詮子様の弟であるというだけで、序列を越えて昇進してしまいました。また、父祖が善行を重ねてくれたおかげで、私自身には徳がないのに登用されました)」

 序列を超えて昇進したという疚しさ。以後もそれが、道長を苦しめたのはすでに見たとおりである。そのうえ道長は、比較的若いころから飲水病、すなわち現代の糖尿病を抱えていて、最後はもがき苦しんで死んでいる。医療がないに等しい時代に、62歳までよく生き永らえたものだが、権力への執念で病気に勝ち続けたのだろうか。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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