「老齢になることはそんなに悪いものではない」 米寿を迎えた横尾忠則が考える“生の醍醐味”

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 88歳の誕生日を6月27日に迎えました。88歳の誕生日は「米寿」と呼ぶらしく、この間までその存在を知りませんでした。教養ないですね。米という字を分解して八十八ねェ。だからどうしたといいたいけれどそれで「よねの祝い」というらしいのです。そして、この米寿の祝いは身内でするのがたてまえらしいですが、うちの身内は、親子4人で祝うことはなかったですね。

 当日、または前日から、友人の作家達、編集者、美術館などからメールや祝電や祝い花が随分沢山贈られてきたり、連日わざわざアトリエを訪ねてくれたり、いつもの誕生日に比べると、米寿はなんだかイベント的で随分大袈裟でしたね。わがスタッフはファッション・グッズなどのプレゼントをくれたり元タカラジェンヌも2人来て、「Happy Birthday」を歌ってシャンパンでお祝いしてくれたり、なんだか88歳がまぶしく、恥ずかしかったですね。

 まあこうした人達がもしかしたら身内ってことですかね。米寿を迎えるまで生きると親しい友人知人も増えるけれど、一方では米寿の前後の友人知人が次々と鬼籍に入ってしまって、ここ2、3年の間に随分寂しくなってしまいました。これも米寿まで生きたためでしょうかね。

 子供の頃から虚弱体質で、まさかこの歳まで生きるなんて想像もしていませんでした。父が69歳、母が74歳で亡くなりましたが、母が父より5年も長生きしたので、やはり女性の方が長命なんだなあと感心したりしたものです。現在の平均寿命は男81歳、女性87歳だそうですが、わが夫婦はすでに平均寿命を超えています。まあ、それはそれで目出たいことなんでしょうが、このあと、何歳まで生かされるんでしょうかね。

 百歳時代なんていわれていて、そこまで健康で元気で生きられるなら、もっと生きてもいいですよ、と厚かましく言っちゃいますが、長寿と共に体力も落ち、頭もボケて、顔もクシャクシャで人間を越えた存在になりかねません。それはそれで未知の領域に入っていくわけですが、如何なる想いで自己とこの世界を体感するんでしょうか。まだ体感していないけれど、生きているのか死んでいるのかその区別もつかない――そこまで行ければ行った者勝ちじゃないでしょうか。

 僕はそんな生死のはざまで自分が描く絵を見てみたいと思いますね。もう、その頃は煩悩もなく、欲得を越えた非人間主義の領域に入っていますから、究極の芸術がモノになるんじゃないか、と想像するのですが、それ以前にボケてしまって、ただのガキが描いた絵で、もっと前に死んでいれば多少は評価されたのに、惜しいことをしましたねと、同情で終ってしまうのかも知れません。

 本来の人間の寿命は天が決めるべきなのに、AIのようなおかしな医学だかなんだかの実験台になって生かされているだけで、こんな用のない人間ばかりがウジャウジャいる、そんな未来図が浮かびます。とことん生かす現代の医学では、延命医療のためにその実験台にされている人だっているんじゃないでしょうか。

 まあ理想的な死というものはないでしょうが、大病を患らわないで、シコシコ生きながら、命の尽きる時には心不全か何かで、コロッと死ねたらいいんじゃないでしょうか。僕は幸か不幸か死のシミュレーションを急性心筋梗塞で体験しているので、そんなに死は恐れるものではないと思います。多分、あんな感じで絶命するんだろうなという仮想体験を経験しているので、死そのものはそんなに怖いものではないですよ、とだけお伝えしておきます。

 さて、88歳の米寿に話を戻しましょう。読者の中にはかなり米寿に近い人、すでに通過された方もいらっしゃると思いますが、老齢になることはそんなに悪いものではなく、むしろこれからのほうが生かされることの醍醐味を味わえるんじゃないでしょうか。僕でいえば、これからが絵の佳境に入っていくんじゃないかと思っています。

 多分見た目には下手くそな絵になっていくと思います。若い頃はデフォルメして無理に下手くそに描こうと努力をしていましたが、この歳になると努力などしなくても下手にしか描けなくなりました。それと次第に横着になってしまっているので、手抜きの絵しか描けないんです。こういう絵はほとんど全ての画家が究極の表現として考えていると思うのですが、90歳代になって百歳に近づき、百歳を超えると、放っといてもそういう絵しか描けなくなるのです。

 北斎が90歳の時、「あと10年延命させてくれたら、宇宙の真理が描ける」と言ったのはこういう身体的状況まで生かしてくれ、といった願望だったのではないかと思うのです。

 つまりこの歳になると目的も計画も計算も策略も、持とうと思っても持てなくなるのです。自分が自分自身を放っとけるようになるのではないかと思うのです。自分が自分が、と言っている間はダメで、自分って誰? と思うくらい人ごとになれば、最高の生き方ができるんじゃないかな? と僕は思うんですが――。

横尾忠則(よこお・ただのり)
1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。第27回高松宮殿下記念世界文化賞。東京都名誉都民顕彰。日本芸術院会員。文化功労者。

週刊新潮 2024年7月25日号掲載

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