「盲腸が破れてもステージに」 ケイの語る「2024年のピンク・レディー」
ギャラ3000円の時代
デュオで歌うようになったのはヤマハの講師のこんな勧めからだった。
「2人は声質がまったく違うから、一緒に歌ったらすごくパワフルなハーモニーになると思うよ。それに芸能界に入っても仲よしの2人でいつも一緒ならば、怖くないでしょ」
そのアドバイスにしたがって2人はデュオを組み、アマチュアながら祭りやイベントに招かれて歌うようになる。
「ギャラはいつも1人3000円。でも、このまま続けていてもプロにはなれないと2人で話し合って、コンテストに挑戦しました」
当時テレビでは歌手のオーディション番組がブームだった。フジテレビの「君こそスターだ!」では、“プロっぽい”という理由で落選。そこで日本テレビの「スター誕生!」では素朴な雰囲気を自分たちで演出した。それが功を奏して、レコード会社やプロダクション計8社から指名を受ける。1976年に作詞・阿久悠、作曲・都倉俊一による「ペッパー警部」でデビュー。怒涛のアイドル生活が始まった。
「1日の仕事をきちんと、穴を開けることなくやり切る。それをテーマに歌う毎日でした」
白米を食べた記憶がない
当時、ピンク・レディーは眠る時間もない、食べる時間もないと報道されていたが、実際はどうだったのだろう。
「毎日朝から深夜までスケジュールがぎっしりと入っていて、お肉、お魚、お野菜のしっかりした食事をいただけることはほとんどなかったですね。一番忙しかった何年かは白米を食べた記憶がありません。移動のクルマにいつも用意していたバナナとリンゴと泉屋のクッキーを食べていました。テレビ番組ではお弁当が出ていたと思うけど、楽屋に届く前に次の現場に向かっていました。あの頃の私たちは、たぶん栄養失調だったはず。
ベッドの上で眠れる時間は2時間くらい。ときどき3時間いただけたかな。いつも微熱があって、ステージの袖で、立ったまま眠っていました。それでも、歌って踊れることは嬉しかった。曲のイントロが鳴ると気持ちも身体もバーン! とスイッチが入ります。ステージのセンターに出ると、力があふれて、笑顔になる。歌って踊っているときは楽しくてしかたがないんですよ。そして歌い終わったら、すぐに次の現場へ急ぎます」
忙し過ぎたから、ほかの歌手と交流することはなかった。舞台袖やテレビ局の廊下で挨拶をするのが精いっぱいだった。
「ずいぶんやせちゃったけど、大丈夫?」
「ちゃんと食べてる?」
「眠る時間はある?」
芸能界の先輩たちは気遣ってくれた。
「大丈夫です!」
元気に答えていた。
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