手塚治虫のもとへ乗り込み、山下達郎とツアーを回り…キーボード奏者・難波弘之の“鍵盤人生”

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SF受賞歴も、ロックに傾倒

 その友人の影響で聞き始めたのが、GSの中でも音楽性が高かったザ・スパイダースやザ・ゴールデン・カップス。オルガンの大野克夫やキーボードのミッキー吉野に「何じゃこれ?」と衝撃を受け、彼らの演奏する洋楽に心を奪われていった。

「時代はサイケデリック・ロックの時代に入っていた。他の同級生がエレキギターから入ってベンチャーズやビートルズを通っていったのに対し、僕はいきなりドアーズやヴァニラ・ファッジ、ジェスロ・タルなんかを聞き始めたんです」

 ここに落語、SFに続き、ロックという趣味が加わった。「それが変わらないままずっと来ました」と、50年以上をそれらの趣味とともに歩んできた。

 SFでは中3時にサイボーグを扱った短編「青銅色の死」で、初等科から大学生まで学習院全体を対象とした「安部能成文学賞」を受賞した経験もある。同世代のライバルには、後に「傷だらけの十六歳」を著した柴田成人や「善人は若死にをする」の大西赤人がおり、「“花の15歳トリオ”とも呼ばれていた」というが、「僕は量産できず、安定供給できなかった。売れ線には行けなかったんです」と作家の道は諦めたという。

 一方でロックへの情熱はますます深まり、高校、大学はひたすらバンド活動に夢中になった。大学の学年が進み、友人らがリクルートスーツに身を包むようになっても音楽を続けていたという。

 同人誌「宇宙塵」の編集長から、小説家・半村良のアシスタントの打診もあったが、同じ頃に開かれた文化祭で演奏していた際、音響の仕事をしていた人に声を掛けられた。

「お前、プロになれるよ。なんでこんな下手な奴と一緒にやってんの? とっととプロになれ」

山下達郎との出会い

 この文化祭に当時、新人歌手だった太田裕美が訪れ、そのバックをベースの鳴瀬喜博、ギターの中島正雄、ドラムスの橋本英晴らが務めており、金子マリも遊びについてきていた。難波の演奏を見ていた鳴瀬に「Charと組んでいたスモーキー・メディスンが解散するので、新しいバンドを組む。一緒にやらないか」と声を掛けられ、鳴瀬、金子、橋本に、ギターの永井充男を加えた5人で「金子マリ&バックスバニー」を結成してデビューすることとなる。

 最初に声を掛けられた音響スタッフの事務所を訪れた際、山下達郎が組んでいたバンド「シュガー・ベイブ」のデモテープがあり、それを聞いたという。

「達郎と最初に会ったのもこの事務所でした」

 同じ1953年生まれだが、早生まれの山下が学年は1つ上。1975年にレコードデビューした山下に続き、バックスバニーは1976年にデビュー。難波は22歳を迎えていた。かつてその活躍に目を奪われたミッキー吉野が10代半ばでデビューしたのに比べると、遅いデビューではある。

「僕はどちらかというとネガティブで。自分に自信がなく、この程度でプロなんてなれるわけがない、とどこかで思っていたんですね」

 とはいえ、会社員や半村良のアシスタントなどになる自身も想像できなかった。自身の将来像は「消去法」でもあったが、バンドデビューという形で現実となったのだ。バックスバニーでは、東大の五月祭で、山下のシュガー・ベイブとの対バンも実現。都内のライブハウスでセッションをやっていた頃に、山下が歌いに来ることなどもあったという。

 難波はバックスバニーで、2枚のオリジナルと1枚のライブアルバムを出した後、1978年に所属事務所を離れてフリーとなり、バンドを離脱。1979年にアルバム「センス・オブ・ワンダー」でソロデビューするまでの間に、いろんなバンドから誘いの手が伸びていた。後のスペクトラムや、ozを解散したばかりのカルメン・マキからも誘いがあった。そして山下からも誘いを受ける。

「達郎とは同じ豊島区生まれで一番気が合ったし、インドアオタクでSFオタク。ライブハウスのセッションで来ていた頃から意気投合していた」といい、「デッカ/デラムといったレーベルのサウンドやアニマルズなどのブリティッシュロックなど、音楽的な嗜好も合っていた」と山下のツアーに参加することを決めた難波。山下もあまり言うことを聞いてくれない先輩格のミュージシャンよりも「同年代のミュージシャンと和気あいあいとやりたい」と難波の参加を喜んでいたという。

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