新宿ゴールデン街の歌姫「渚ようこ」の生き方 死の前日、彼女からあった電話が忘れられない

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藤圭子の死を知って…

 自らの過去はほとんど語らなかったと書いたが、一度だけこんな話をしてくれたことがあった。2013年8月22日、藤圭子(1951~2013)が西新宿のビルから飛び降りて亡くなってから数日経ったころだ。藤の歌声を聴いたのは子供のころだったと渚は明かした上で、珍しく自らの過去を振り返った。

「私は田舎の山奥の農家で、おじいちゃんの家で育ったの。テレビの歌番組で藤圭子さんが歌っていたのを覚えていますが、あの独特のハスキーボイスが“怖い”と思ったんです。『なんであんな風に歌うの?』とおじいちゃんに聞いたら、『悲しいことがあったから、ああいう声になったんだよ』と答えが返ってきたんです」

 この言葉を聞いた瞬間、雪深い山形の寒村の風景が目に浮かんできた。貧困、流浪、差別、因習……。戦後の日本人が封印してきた世界を体現したのが渚や藤の歌だった。作家・五木寛之(91)の言葉を引き合いにだせば、まさに「下層から這い上がってきた人間の凝縮した怨念が、一挙に燃焼した一瞬の閃光 」と表していいかもしれない。いわゆるチヤホヤされたエリートとは真逆の人生だったのである。

 そういえば、生前、渚は「文藝別冊 藤圭子 追悼 夜ひらく夢の終わりに」(河出書房新社)のインタビューで、こんなことも語っていた。

「歌を歌う人って、すごく紙一重なところがあると思います。そのぎりぎりのところを超えてあちら側にいっちゃったんだなと思いました」

 そのぎりぎりのところ……。重たい、実に重たい言葉である。聴く人の心の痛みと孤独と不幸に精いっぱい寄り添ったのが「渚ようこ」という歌手でもあった。サービス精神は旺盛。20年近い付き合いがあったシャンソン歌手のソワレによると「さあ次はどんなリサイタルにしようか、と懸命に考えていた人だった」。だが、研ぎ澄まされて繊細な神経の持ち主だからこそ自分の世界観を維持することはできただろうし、反面、バランスを持続させていくのは相当厳しかったに違いない。

 藤圭子にも言えたことなのだが、世の中のいいところも、悪いところも、全部吸い取ってしまったのだろう。だから疲れてしまうのである。

 昭和にタイムスリップしてしまったような店のカウンターの中で、黙ってじっとしていた渚の姿が目に浮かぶ。壁を見詰めていたのだろうか、時折、口元がふっと動く瞬間があった。あれは無口ではなくて、自分と会話していたのだろう。もちろん、何を会話していたのかは他人にはうかがい知れないし、知る必要もない。

 伝説となって語り継がれるスターには陰影がある。放たれる光が強いほど、その影は濃い。日本のマスコミはその影の部分を消しすぎてしまい、何もかも白日の下に晒し出そうとする傾向がある。だが、理解されないまま不可解のまま終わっていくスターもいる。年齢非公表を貫き、自らの生い立ちや故郷についてもほとんど語らなかった渚も影が濃く、心の奥底に潜む情念を引き出した歌い手だった。

 故郷の山形県で葬儀が営まれたが、私は参列しなかった。渚との思い出は新宿ゴールデン街だけにとどめたかったからである。関係者に聞くと、棺にはピンクや赤の衣装、愛用の帽子が納められたという。

 次回は、28年前の8月4日に亡くなった俳優・渥美清さん(1928~1996)。以前も本欄には登場しているが、同じがん患者として闘病生活を送っている筆者が、渥美さんが過ごした最期について、改めて考えたことを書きたい。
(敬称略)

小泉信一(こいずみ・しんいち)
朝日新聞編集委員。1961年、神奈川県川崎市生まれ。新聞記者歴36年。一度も管理職に就かず現場を貫いた全国紙唯一の「大衆文化担当」記者。東京社会部の遊軍記者として活躍後は、編集委員として数々の連載やコラムを担当。『寅さんの伝言』(講談社)、『裏昭和史探検』(朝日新聞出版)、『絶滅危惧種記者 群馬を書く』(コトノハ)など著書も多い。

デイリー新潮編集部

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