「来栖あつこ」の名前が“ひらがな”だったワケ さとう珠緒から受け継いだ「戦隊モノ→グラビア」の流れ

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高校3年の時にオーディション

第1回【「ミニスカポリス」で一世を風靡 46歳・来栖あつこの今、結婚相談所を立ち上げ「未婚の男女を救いたい」】からの続き

「ミニスカポリス」5代目リーダーとして、テレビで活躍した女優でタレントの来栖あつこ(46)。1996年、「激走戦隊カーレンジャー」のオーディションに合格し、芸能デビューした。その後は、グラビアにも進出し、グラドルとしても注目を浴びた。デビューのきっかけや当時の業界の様子などを聞いた。(全5回の第2回)

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――芸能界に入った経緯を教えてください。

 高校3年生の夏休みに、(芸能事務所の)サンミュージックのオフィシャルオーディションに受かったのがきっかけです。いろんな部門がある中で、私はマルチタレント部門という部門で一番良い賞をいただきました。グランプリではなかったですが。

――すぐに所属となったのでしょうか。

 はい。マネージャーさんがそのまま来て「所属してください」と言ってくださり、私とグランプリの子だけが、その時は所属できました。オーディションは3万人くらいが受けていたと思います。

――所属が決まって、それからどうなりましたか?

 名字が珍しいから本名で行くことになりました。その時のマネージャーさんの、女の子の芸名は名字を漢字で、名前はひらがなにするというポリシーによるものでした。その方は浜崎あゆみさんのマネージメントもしていたので、担当する女の子はみな、その組み合わせでした。

――当時は短大への進学も決まっていましたが。

 親からは最初、「休学しなさい」と言われました。父が女子高の教師だったので、女の子は大学まで出ておくべきだという考え方だったんです。ただ、戦隊モノの出演が決まり、撮影で1年間くらい拘束されるのが分かっていて、退学を決めました。

キャリアのない素人さんの“登竜門”

――戦隊モノ(激走戦隊カーレンジャー)のオーディションは、どのようなものでしたか。

 秋に2回、オーディションを受けて決まりました。会場には、学校が終わって制服のまま、2時間ぐらいかけて電車で行きました。当時の戦隊モノは、キャリアのない素人さんの“登竜門”のような感じでした。

――実際に戦隊モノの撮影をしてみてどうでしたか。大変でしたか。

 めちゃくちゃ暑いし、寒いし、厳しいです。挨拶も、衣装部やメイクルームに入ったらスタッフさんに聞こえるように、「おはようございます」と大きな声で言わなければならない感じはありました。

――ほかには何かありましたか。

 照明さん、怖いとか。

――どういうことですか。

 変な演技すると「(ライトを)当てねえぞ」とか言われるんです。でも、撮影の後半になってくると、お父さんみたいな感覚になってきて、一度心を許してくれると、すごく可愛がってくれるんです。厳しさの中で、そういう芸能界のルールを教えていただいたなって、学校の延長線みたいな感じでしたね。

――そもそも、当時、戦隊モノに興味はあったのでしょうか。

 兄がいて、従妹も男の子が多かったので、幼少の頃はみんなで「チェンジマン」ごっこをしていました。5人のカラーがあったら、私は「ピンク」でしたね。

――芸能界入りして、戦隊モノに出演することについて、家族の反応はいかがでしたか。

 みな、びっくりしていました。最初は、父が芸能界に入ることに大反対でしたが、当時の会社のマネージャーと常務が、父に挨拶に来てくださったので、「そこまでしてくださるんだったらいいや」という感じでした。

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