逮捕から48年、田中角栄が教える“正しい札束の配り方” 側近議員は「俺が運んだのは1億円」

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昨今の「政治とカネ」問題とはスケールがまったく違ったのは間違いない

 圧倒的な資金力を武器に総理の座を手に入れたことで「金権政治の象徴」と呼ばれた田中角栄元首相。彼がロッキード事件で逮捕されたのは、48年前、1976年7月27日のことだった。

 その後、田中元首相は83年10月12日に懲役4年・追徴金5億円の実刑判決を受け、最高裁での上告審中だった93年12月に亡くなった。カネの話を抜きに角栄氏を語ることはできないが、そこに知られざる流儀があり、何かしら学ぶべき点があったのもまた否定できないようだ。実際にカネの受け渡しに関わった人たちの貴重な証言を見てみよう(本記事は、「週刊新潮」別冊 創刊60周年記念 2016年8月23日号」に掲載された内容をもとに再構成しました。肩書などは当時のものです)

【前後編の前編】後編「角栄からのカネのありがたみは他の元首相の「何十倍にも感じられた」 大政治家に学ぶ正しい札束の渡し方」では、札束を配りまくった角栄にどんな“狙い”があったのかについて貴重なエピソードや証言を紹介している。

「陣中見舞い」に5千万円の紙袋二つ

「俺が実際に運んだ金で、額が一番多かったのは1億円。田中内閣を作る時のことで、いまから40年以上も前になる。オヤジに言われて5千万円を入れた紙袋を二つ、ある派閥の領袖の事務所に“陣中見舞い”っていう名目で、両手にぶら下げて持ってった。あれは結構、重たいもんだよ」

 懐かしそうなまなざしで生々しい過去を口にするのは、かつて“田中派七奉行”の一人に数えられた渡部恒三元衆議院副議長だ。平成24年(2012年)11月に政界引退を表明し、現在は民進党顧問を務めている。

「それで、相手の事務所に着いたら“田中からです”と言って渡したんだ。まあ、向こうも心得たもので“はい、どうも”で終わり。こういう時は、お互いにムダ話はしないもんなんだ」

 昭和47年(1972年)7月5日、田中角栄は総裁選挙で前首相の佐藤栄作が支持を表明した福田赳夫を破り、第6代の自由民主党総裁に就任した。さらに翌6日には国会の首班指名で戦後11人目の総理大臣に選出され、遂に国権の頂点に上り詰めた。渡部氏が“密使”を務めたのは、ちょうどこの直前の時期である。

 死から20年以上を経たいまも、世間は何度目かの角栄ブームに沸いている。その田中角栄を語る時に必ず出てくるフレーズが「金権」だ。が、「今太閤」と親しまれ、あるいは「闇将軍」と唾棄された角栄には、現代に生きる我々が範とすべき点が少なくない。それは、かつて世間の強い批判にさらされた、札束の配り方においても例外ではない。

 さて、現役時代に角栄の名代として多くの議員に札束を届けた渡部氏が初めて角栄に会ったのは、昭和44年(69年)の暮れだった。

「あって邪魔になるもんじゃない」

「初めて総選挙に出馬した時、幹事長だったオヤジは俺に公認をくれなかった。だから、無所属で当選はしたものの、俺も後援会も“田中憎し”で凝り固まっていたんだ。ところが会津若松から上京して上野駅で降りたら、金丸(信)副幹事長と竹下(登)国対副委員長が改札の外で待っていてね。竹下は早大雄弁会の先輩だし、金丸はその盟友で党の幹部。その二人が改札を出たところで“幹事長が会いたいって言ってるから案内するよ”って言うわけよ」

 黒塗りの車に乗せられ、着いた先は永田町の自民党本部だった。

「オヤジは“おめでとう、おめでとう”って言いながら、公認証書を“受け取ってくれ”って取り出した。でも、俺はムスッとしたまま“幹事長さん、これを選挙の前に頂いていたら、ここで土下座して感謝したでしょう。でも、選挙は終わりました。もう、こんなものは紙切れです”って言って、その場でバリッと破いちゃった」

 普通なら、ケンカになってもおかしくない場面だが、

「オヤジは顔色一つ変えないで、“お前ね、親心というのを知らないんだな。お前を当選させたいために公認しなかった、この俺の気持ちが分かるか?”って言うんだよ」

 実は、この時の渡部氏の主な得票は、独自候補がいなかった、民社党と公明党の支持者からのものだった。

「だから、俺が自民党の公認を受けていたらその票は入らず落選していたというわけ。そこまで調べているのかと感心していたら、オヤジはおもむろに“これは公認料だ”と言って金庫から茶色い包みを出してきた。そのままで差し出されていたら、俺は絶対に受け取らなかった。ところがオヤジは包みをパーッと破いて100万円の束を三つ取り出して、“こんなもの、あって邪魔になるもんじゃない”って、俺の上着のポケットに入れちゃったんだ」

 それは渡部氏に断る隙を与えない、絶妙なタイミングだった。

「俺の失礼な態度に腹を立てるでもなく、少しも偉ぶらない。自然と懐に入ってくる人間味に俺は一遍で惚れちゃった。あれこそ“田中角栄”の真骨頂だった」

札束の厚さで評価を伝える

 戦後の高度成長期と軌を一にした、43年にもわたった議員生活。その間、角栄がばらまいた札束の総額は、数百億円とも1千億円ともいわれる。が、彼の配り方には流儀とも法則ともいうべき共通項が見て取れる。その一つが初対面で渡部氏を虜(とりこ)にしたような独特の気配りだ。

 角栄が2度の幹事長を務めた時期(昭和40~41年、昭和43~46年・ともに佐藤栄作内閣)を含め、30年以上にわたって自民党幹事長室長を務めた、奥島貞雄氏が振り返る。

「夏のちょうどいまの時期、多くの議員が外遊に出ますね。角さんは7月半ばを過ぎると、外遊を予定している議員を個別に幹事長室に呼んで、餞別を配るのを恒例にしていました」

 角栄はそれらの議員と会う前に、誰がどこに行くのか、その議員が会期中にどんな働きをしたのか、つぶさに把握していたという。

「あらかじめ、事務方に調べさせておくんです。私も知り合いの新聞記者や党の国対事務局に、角さんから言われた議員の委員会への出席状況や法案審議における態度などを細かに聞いていました。というのも、当時は委員会をサボりまくる議員や適当な質問でお茶を濁す議員は少なくなかった。角さんはそれを見越して、幹事長室に呼ぶ前に独自の論功行賞の判断を下していたのです」

 その拠り所となるのが、事務方の独自調査をまとめた詳細なメモだった。

「私たちとの打ち合わせが一段落すると“よっしゃ、電話せい”と、例のダミ声で指示が来ます。で、事務員が議員会館に電話をすると、ほどなく議員がやって来る。面談はものの5分から10分程度ですが、話す内容は旅先のことや家族の近況など雑談ばかり。議員活動の是非には一切触れません。それを適当なところで切り上げると、角さんは現金を入れた茶封筒を渡すのです。金額は相手によってまちまちでしたが、大抵は100万円。少ない場合は50万円の時もありました」

 毎年、角栄が呼び出す議員は20人から30人前後。彼らが何かの拍子に角栄から渡された金額の多寡を比べることがあれば、そこで自分の評価を知ることになる。角栄は直接、相手を褒めたり叱ったりすることはせず、十分な働きには分厚い札束で報い、そうでない議員には薄い札束で発奮を促した。さり気なく自らの評価を伝えていたのである。

テーブルでトントン

 さらに奥島氏は、日米安保条約の自動更新の是非が争点となった昭和44年(69年)の総選挙の際、角栄の金銭哲学の一端を目の当たりにしたと述懐する。

「公認候補に配る300万円の公認料がありますが、それまでの幹事長は、自分が属する派閥の議員には多めに渡す一方で、他派閥の議員の分を減らすのが普通でした。ところが角さんは一切、それをやらない。反主流派でも、まったく同じ額を配るんです。そのやり方は本当に公平でした」

 厳しい選挙戦を戦うのは、どの議員も同じこと。ここにも角栄一流の配慮がうかがえる。また、公認料を“表の金”とするなら、当然“裏の金”もあった。奥島氏は、角栄から直々にその扱い方を伝授されていた。

「200万円から300万円の札束を包む際には、角さん流の工夫がありました。模造紙などで丁寧に包み、最後にセロテープで留めて完成ですが、角さんは仕上げとばかりに8カ所の尖った角をテーブルでトントンと叩いて潰すんです。理由を尋ねると、“こうするとスーツのポケットにしまう時に角が引っ掛からず出し入れしやすいんだ”と得意げに話してくれました」

 こうして作られた角栄手製の“実弾”は、主に腹心の二階堂進筆頭副幹事長が名代となって、人知れず各選挙区の候補者の手に渡っていった――。

 後編「田中角栄からのカネのありがたみは他の元首相の「何十倍にも感じられた」 大政治家に学ぶ正しい札束の配り方」では、金を渡すにあたり、相手の心をつかむために角栄元首相が実践していた気配りをさらに見ることとする。

デイリー新潮編集部

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