【追悼】“民放テレビ初のフリーアナ”押阪忍さんが「フリーでも生き残れた」理由とは

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 フリーアナウンサーの押阪忍さんは、お昼の顔だった。平日の12時台に放送されていたTBSのクイズ番組「ベルトクイズQ&Q」の司会を1972年から務め、人気を博していたのだ。

 視聴者参加の同番組は、赤白それぞれの出場者がクイズに臨み、ミリオンステージに進出すると最高で100万円の賞金に挑戦できる。月に5万通以上の応募があり予選も行われた。

押阪さんの名司会あってこそ

 芸能レポーターの石川敏男さんは言う。

「素人の解答者を相手に押阪さんの名司会があっての番組でした。面白いことを言うのではなく控えめで、素人の人柄や心境を引き出していく。からかったりあおったりせず実直に進める。かえって臨場感が出て視聴者もワクワクしました」

 同番組はアシスタントも公募していた時期がある。400人の中から選ばれた当時の大学生、大谷静代さんは振り返る。

「約半年の短い間でしたが、押阪さんはテレビで観る通り穏やかで温かい人でした。緊張していた私に、“ゆっくり、はっきり話せば大丈夫”と声をかけて下さったことを覚えています。出演されている方が楽しみながらクイズに挑戦できる雰囲気を自然に作っていました。私が失敗した時も怒ることはありませんでした」

テレ朝アナウンス部の第1期生に

 35年、岡山県津山市生まれ。5人きょうだいの末っ子。母親と兄姉全員を結核や肺炎で亡くし、小学生から父親と二人暮らしになる。生活は苦しく、立教大学に進むが相撲の出羽海部屋で書生を務めながら学んだ。

 58年、現在のテレビ朝日にアナウンス部の第1期生として入社。64年の東京五輪では女子バレーボールを担当。練習場にも足を運び、大松博文監督とも信頼関係を築いた。実況では先輩アナウンサーの補佐役だったが、事前取材が生かされた。翌65年、民放テレビ初のフリーアナウンサーになる。

 元NHKアナウンサーで作家の下重暁子さんは言う。

「自分を押し出さず、温厚で品が良い話し方でした。民放にもこういう人がいるのだと当時思いました」

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