戦後最悪「19人殺害」相模原殺傷事件犯人の「障害者ヘイト」を育てた家庭環境
リア充の裏に憎悪
19人死亡、26人が重軽傷となる戦後最悪の大殺りく劇。手紙を見る限り、前々から準備をしていた襲撃犯、植松はどういう人物なのか。
15年1月、25歳の誕生日に背中一面の刺青をツイッター上でさらし、
〈会社にバレました。笑顔で乗りきろうと思います〉
そうつづっていた植松は90年に東京・日野市で生を享け、間もなく現在の自宅に引っ越した。
父が小学校の図工教師という家庭の一人っ子。小中学校は地域の公立に通い、八王子市内にある私立高の調理科に進学し、バスケ部に所属した。
卒業後は現役で帝京大学へ。父親に倣ってか教職課程を選択し、周囲にも、
〈俺、子供が好きなんだ。将来は先生になりたい〉
と話していた。実際に母校の小学校で教育実習も行っており、近所に住む男性によれば、
「私の孫が実習中に教わったのですが、とても熱心で、みんなから好かれている評判のいい先生だと言っていました」
体育会ひとすじの高校時代を経て、大学ではもっぱら飲み会を行うサークルに所属。
別の住民も、
「友達は多かったし、よく自宅にガールフレンドも連れてきていました」
というのだ。
猟奇殺人や無差別大量殺人犯には、しばしばひきこもりなど社会性の欠如が見られる。が、頻繁に仲間が登場するツイッターと合わせ、社交性に富む植松は「リア充」の青春を送っていたのが見てとれるのだ。
一方で、すでに事件の“萌芽”は顔をのぞかせていた。
「教職免許を取るために学生時代に児童養護施設でボランティアをしていたのですが、そこにいる障害者の人たちを話題にして『キモい』『あいつら生きている意味がない』なんて言うのです。『お前、それやばいよ』と注意したのですが、度々口にしていました」(同級生)
しかし卒業後は教職に就かず、なぜか障害者福祉施設である「やまゆり園」に就職。相前後して、自宅でも“異変”が起きていた。
「ご両親が出て行ったのです。お父さんと折り合いが悪いと聞きましたが、夜中にお母さんが『ギャー』と泣き叫んでいたこともありました」(住民の一人)
もっとも隣の男性は、
「あいさつもきちんとできる好青年でした。お互いの家の間の雑草がひどかったので『除草剤をまいてもいいか』と尋ねたら、『僕がやりますよ』と、友人を呼んできれいにしてくれました」
が、心の奥底には邪念が渦巻き、恐るべき形での“発露”は時間の問題だった。その証拠に、
「彼の障害者に対する憎しみはエスカレートしていき、施設の職員でありながら“障害者なんか死んだ方がいい”などと口走るようになっていた。入居者に暴言を吐いたり、暴力を振るったこともありました」(相模原市役所の担当者)
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