【袴田事件】「妄想の世界から抜け出せていないようだ」「夜中に1時間も風呂に入る」事件発生から50年目、姉が明かした巌さんの近況

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「不自然な血痕と思った記憶はまったくない」

《県警の富安(要)刑事課長が不安そうな顔をしながら(中略)『検事さん、有利になるか不利になるかわからないのですが、とんでもない物が出てきてしまった』などと言って説明を始めました。(中略)この時、初めて、袴田の有罪立証に若干の不安を感じました》

《5点の衣類が間違いなく、袴田の物であることと、タンクに隠すことが可能だったことを立証する必要があり、これらの立証ができなければ、下手をすると袴田が無罪になる可能性が出てきてしまったと心配になったのです》

《私が、5点の衣類を発見直後に見た時、一年以上味噌に漬かったものとして不自然に思えた点は何もなく、また、公判でも、弁護人や裁判所からそうした疑問が呈されたことも一切ありませんでした。(中略)元が白かった半袖シャツやステテコでは、これらの写真のようにべったりと血痕が付いているのが一見してわかりましたが(中略)写真で見るよりも、もう少し黒褐色っぽい色合いに見えた覚えです。(中略)赤黒く血が付いたような跡がはっきりわかりました。色付きの衣類も(中略)少し赤黒くなっており、血痕の見わけがつきました。不自然な血痕と思った記憶はまったくありません》

警察の捏造を知っていたはずの吉村検事

 吉村氏は、当初の方針だったパジャマでの立件に問題はなく、自信があったとしている。それなら「犯行着衣はパジャマ」で押し通せばよかったはずだ。不安も感じていたはずの「5点の衣類」になぜ変えたのか。その裏には異様なまでに迅速な裁判所の動きがあった。

 衣類が発見された日は1967年8月31日。9月12日には袴田さんの実家からズボンの共布(裾上げで切ったズボンの裾)が見つかったとされる。ところがその日、裁判所は急遽、次回期日(17回公判)を翌日の9月13日とした。そんな根本的なことが突然変更されるのなら、裁判所としては時間をかけて煮詰め直すべきだった。

 吉村氏は“味噌に漬った白い半そでシャツ”が白いままだった警察の証拠写真について、作原検事に「自分が見た実物より白すぎる」「(写真の)焼き付けがおかしいのか」などと述べた。シャツの血痕については、写真のように赤くなかった印象も述べている。

 この時点ですでに、味噌漬けで1年以上経った衣類についた血痕が、写真では赤いままだったことの不自然さを、再審請求弁護団が追及してくることはわかっていた。高検の意に沿う「記憶発言」をした可能性は否めない。

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