【袴田事件】「妄想の世界から抜け出せていないようだ」「夜中に1時間も風呂に入る」事件発生から50年目、姉が明かした巌さんの近況

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 警察の証拠捏造は火を見るより明らかだが、検察はそれを知っていたのだろうか。まだまだ未解明の部分が残る事件から50年目の6月30日、袴田巖さん(88)の姉・ひで子さん(91)が語った言葉とは。1966年6月に静岡県清水市(現在の静岡市清水区)で味噌製造会社の専務一家4人が殺害された事件。死刑判決を受けた巖さんと弟を支えるひで子さんの闘いを綴る連載「袴田事件と世界一の姉」44回目。【ジャーナリスト/粟野仁雄】

10年前に取られていた吉村英三元検事の調書

 1968年9月11日、袴田巖さんに極刑が言い渡された静岡地裁(石見勝四裁判長)の一審では、警察と検察合わせて45通にのぼる巖さんの供述調書のうち44通が証拠排除された。唯一採用された調書を担当したのは吉村英三検事だ。

 事件が起きた1966年6月当時、34歳だった吉村氏は、静岡地検で袴田事件の主任検事を務めた。退官後は関東で弁護士となり、現在は92歳である。吉村氏は「犯行着衣はパジャマ」として巖さんを起訴し、法廷でも裁判を進めていた。

 事件が発生した翌年の夏、公判が大詰めの最中に警察から突然知らされた「5点の衣類の発見」に、彼はどう対処したのか。「パジャマで立件しているのにそんな馬鹿な」と思うような展開だが、彼はさっさと冒頭陳述を変更して、犯行着衣をパジャマから5点の衣類に変えてしまった。

 県警が記者に「血染めのシャツ」と大々的に書かせたパジャマは、警察庁の科学警察研究所での再鑑定で「血液型も判明できない微量の血痕」とされ、危うくなっていた。

 吉村氏は82歳だった2014年7月11日、東京高検にこの経緯を聴取され、内容が調書化された。同年の3月27日、静岡地裁(村山浩昭裁判長)が再審開始と拘置停止を決定して巌さんは釈放されたが、静岡地検は即時抗告していた。つまり、吉村氏の聴取は即時抗告審で高裁に決定を取り消させる目的だった。

「パジャマが立証の最も重要な柱だと考えていた」

 吉村氏は東京高検の作原大成検事に対して以下のように語っている。

《犯行着衣は自白の通り、“パジャマ”であると思っていましたし、このパジャマには被害者の血液型の血液が付着し、放火に用いられたのと同じ混合油も検出されていたことから、それのみでも、十分に有罪の認定を得られると思っていました。このパジャマが立証の最も重要な柱だと考えていたのです。袴田の自白には、これを裏付ける多くの証拠があり、十分な信用性があると思っていましたし、警察や検察による袴田の取り調べ方法に問題があったとは考えておらず、袴田の自白調書は、任意性を経て問題なく証拠採用されると思っていました》

《自白を裏付ける証拠というのは、例えば、袴田や被害者と同じ血液型の血痕が付いた手拭い、袴田が購入した凶器のクリ小刀、袴田にはまとまった金を必要とする犯行動機があったことなどです》

《5点の衣類が発見された当時、検察官立証は、あと数期日程度で終わる予定だったのです》

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