アラン・ドロンへの虐待で刑事告訴され自宅にも戻れず… 17年間事実婚状態のヒロミさんが日本メディアに初の告白

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映画業界へ

 当初、フランス語は“ボンジュール”程度しか知らなかったものの、2年後には難関大のひとつ、パリ第10大学の社会学部に入学を果たした。

「大学で『民族学映画』を学んでから興味が湧き、映画監督になることが人生の目標になりました。ここでの2年間でDEUG(一般教育課程修了証書)を取得し、その後、私立の映画学校に2年間通って映画作りの基礎を学びました。映画学校を卒業した後、何とか業界に入ろうとコネを探していたら、大手映画会社で会計助手のアルバイトを募集していて。採用されると9カ月ほどで正社員に誘われました。けれど、私は“映画監督になりたいんです”とそれを断った。すると、この会社のプロデューサーが製作する作品の助監督見習いを勧めてくれたのです」

 これをきっかけに、ヒロミさんは映画界でキャリアを築き始めた。

「努力と才能のたまもの」

 パリで活動する芸能記者によると、

「ヒロミ・ロランは、85年に見習いとして監督業のキャリアをスタートさせました。4年ほどで第2助監督に昇進し、06年までにテレビも含めて30本近い作品作りに携わった。巨匠と呼ばれる監督の作品や、スターが出演する作品も含まれている。努力と才能のたまものでしょう」

 若くして海を渡ったヒロミさんは、映画界に身を投じる以前に伴侶を得た時期もあったという。

「相手は映画や芸能界とは無縁の方。30年ほど前に離婚しましたが、映画界ではロラン姓で通っていたので、その後も変えずに使っているんです」

 中編「『“一晩だけ”で終わるつもりが…』 アラン・ドロンと事実婚状態だったヒロミさんが明かす、ロマンチック過ぎる出会い」では、映画業界で活躍し始めたヒロミさんが、ドロンとの出会いや情熱的なアプローチについて語った。

 さらに、後編「自然に囲まれた幸せな生活から、突如どん底に… アラン・ドロンと事実婚状態だったヒロミさんが明かす、『家族との不和』の裏側」では、ドロンの子どもたちとのあつれきについて、舞台裏を語りつくしている。

アラン・ドロン
俳優。1935年、フランス・セーヌ県で映画館を営む父と薬剤師の母との間に生まれる。17歳で海軍に入隊し、第1次インドシナ戦争に従軍。除隊から2年後の1957年に映画「女が事件にからむ時」で銀幕デビュー。24歳の時に主演した「太陽がいっぱい」は、日本でも大ヒットを記録した。

週刊新潮 2024年7月25日号掲載

特集「彼の子どもたちから刑事告訴され…『アラン・ドロン』謎の“日本人妻”が初告白」より

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