「LINEグループが円満の秘訣かも」 全員70代! J-POP「伝説のミュージシャン」バンドを松任谷正隆が語り尽くした
「忠さんへの懺悔でした」
松任谷は小坂のバックグラウンドを意識し、尊重し、ステージを教会のようにつくりあげた。ゴスペルのコーラス隊も入れた。
「ここは忠さんのホームです」
そう伝えた。
「フォージョーハーフのころの僕は20代になったばかりでした。忠さんは音楽の先輩だけど、それでもまだ20代なかばです。僕も手探りだったけれど、忠さんも手探りでした。そのことも考えずに反発して、ライヴをドタキャンしていた僕の、忠さんへの懺悔でした」
客席5000の東京国際フォーラムホールAは満席になり、ショーは大成功に終わった。
「僕はステージの上で、忠さんに幸せになってほしかった。幸せな瞬間を体験してほしかった。それを願って演出しました」
しかしそのころ、小坂の身体はがんに蝕まれていた。松任谷は2021年のSKYEのアルバム「SKYE」で小坂に参加をオファーする。そして2022年4月30日、もう1度、松任谷は小坂と横浜で共演できるはずだった。しかし前日の4月29日、小坂は永眠した。
「忠さんのショー、僕は一所懸命やったんです。なぜ一所懸命やったのか、コンサートが終わったときに気づいたんです。僕は愛されたかったのかな、と」
小坂が逝去した翌日に行われたライヴのステージ上で、松任谷はそう聴衆に語りかけたという。
「あのときのMCは、僕、泣くな、泣くな、と自分に言い聞かせていました」
涙を見せることなく、松任谷は総合演出を務めあげた。
「人って、どんなに嫌い合っても、無理だと思っていても、実際には関係を修復できるものです。今になってわかりました」
自身の作品へのリベンジ
バンド、SKYEにはミュージシャンとして松任谷自身のテーマもあった。
「かつてリリースした僕のソロアルバムへのリベンジです」
松任谷は1977年にアルバム「夜の旅人」を制作。作曲とリード・ヴォーカルは全曲松任谷自身、歌詞は全曲ユーミンが書いた。
「これは俺じゃない」
そう松任谷は思い続けてきた。
「作詞は由実さんですし、自分らしい作品とは思えず、好きになれませんでした。あれから約40年、キャリアを重ね、ヴォーカルのディレクションもやってきました。歌もうまくなっているはず、と思っていました。でも、そうはいきませんでしたね」
今回、リード・ヴォーカルを担当する曲は、深夜、自宅のスタジオで歌入れを行った。
「人が寝静まった深夜に1人で何度も歌いました。うまくなったとは思えなかったけれど、でもね、とても楽しかったんですよ。音楽を楽しめた。すると、『夜の旅人』も受け入れられるようになりました。あの歌詞を書いたのは由実さんですが、それも含めて僕のアルバムだと思えるようになりました」
こうして「Collage」は満足できる仕上がりになったという。
「僕たちらしい、バンドとしてよくまとまっているアルバムだと思います。レコーディングでは、さまざまな手法にもチャレンジしています。たとえばリレー方式の曲作りです。メロディを手分けして書いたものもあれば、あえてメロディもコードも歌詞も考えずにスタジオに集まり、ゼロから音楽をつくったものもあります」
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