「LINEグループが円満の秘訣かも」 全員70代! J-POP「伝説のミュージシャン」バンドを松任谷正隆が語り尽くした

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70代で現役バリバリの理由

 SKYEに限らず、1940年代後半から1950年代生まれには演奏技術が高く、息が長いミュージシャンが目立つ。

「そうなのかな……。もしそれが事実だとしたら、僕たちは時代に育ててもらったのだと思います。プロになったころから、世界的に音楽を制作する環境が変わりました。 ひと世代上は、歌も演奏も一緒に録音する、いわゆる一発録りが主流でした。仕上がりの9割くらいは歌手の実力やその日の出来次第です。でも僕たちの時代には、マルチ・トラックが発達しました。つまり、楽器それぞれを別に録音できるようになった。それで多分ミュージシャンに求められるものが大きくなったんだと思います。それまでの技術職から創作職に変わっていったといったらいいのかもしれない」

 同世代で切磋琢磨をしてきた盟友たちをSKYEは1枚目のアルバムでゲスト・ヴォーカルに迎えている。松任谷由実、吉田美奈子、矢野顕子、尾崎亜美、ブレッド&バター、そして小坂忠がレコーディングに参加した。

「1作目は手探りでした。あれ1枚でバンドは終わる可能性もあり、せっかくなので、同じ時代に育った音楽仲間に参加してもらったんです。1970年代に一緒に音楽をつくり、その後はそれぞれ別の道を歩いていったミュージシャンたちに声をかけさせてもらいました」

 松任谷は1971年に吉田拓郎のアルバム『人間なんて』でプロとしてレコーディング・デビューしている。そして1972年にバンド、小坂忠とフォージョーハーフに参加した。その小坂もSKYEの1枚目のアルバムで歌っている。松任谷と小坂はSKYEが活動をスタートする少し前、2018年に約40年ぶりに再会した。

小坂忠との対立と和解

「WOWOWが主催するSONGS&FRIENDSというライヴのシリーズがあります。毎回1枚のアルバムをテーマに、多くのミュージシャンが参加する企画です。その2回目で忠さんのアルバム『ほうろう』がテーマになり、主催側から僕に総合演出の依頼が来ました」

 実は小坂忠とフォージョーハーフ時代、松任谷にはいい思い出がなかったのだという。リーダーの小坂の音楽に魅力を感じることができず、飛行機が苦手で、ワゴン車での移動も嫌で、仮病を使い、身内に不幸があったと偽り、ライヴをドタキャンし続けた。

「フォージョーハーフでも一緒だった林には、あのころ、ずいぶん叱られました」

 バンドは埼玉県・入間にあった米軍基地跡の“ハウス”で暮らしていたが、そんな共同生活も苦痛でしかなかった。そして、いつも小坂は親しい細野晴臣の意見は聞く。松任谷の意見をなかなか受け入れないことも不満だった。

「ところが、再会した忠さんは僕が知る彼とは別人でした。40年も経っているのでおたがい十分に大人になっていたのかな。忠さんは、フォージョーハーフの後、牧師さんになられたんですよ。1990年代にまた音楽を再開して、ゴスペル・シンガーとしても活動していました。長い紆余曲折、試行錯誤があり、自分のスタイルをつくり上げていました。その世界観を見せていただいた」

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