【光る君へ】紫式部が「道長」の子を産んだ… 歴史を誤解させる「大河ドラマ」をどう考えるか

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「道長の娘だから」で思考が止まる

 この設定はどうしてまずいのでしょうか。脚本家の大石静さんは気づいていないと思いますが、「紫式部の子の父親は道長」という設定は、今後の物語に対する視聴者の目線に著しい先入観をあたえかねません。たとえば、このドラマのクライマックスと思われる『源氏物語』の執筆について。

『源氏物語』では「不義の子」は重要なテーマで、たとえば、光源氏と藤壺中宮のあいだに産まれた源氏に生き写しの男子は、桐壷帝の子として冷泉帝になります。では、なぜ紫式部はこういう物語を構想したのか。それについて想像をめぐらせるのは有意義ですが、『光る君へ』を見たら、「ああ、紫式部は実体験を書いたんだね」。これで終わってしまいます。

 宣孝は長保3年(1001)4月25日、おそらくは疫病が原因の内臓疾患で急死しますが、その前は道長に近侍し、なにかと重用されます。いじみくもドラマで宣孝自身が「左大臣様は、ますますわしを大事にしてくださる」といいましたが、実際、道長は自分の子を育ててくれているから宣孝を重用した、と見えるでしょう。

 紫式部が『源氏物語』を書くにいたった動機も、数年後に道長の長女である中宮彰子のもとへ出仕することになるのも、視聴者の目には、道長の子を産んだことと関係があるように映るはずです。

 また、紫式部の娘の賢子に関してはいうまでもありません。母親に次いで彰子のもとに出仕したことも、藤原頼宗(道長の次男)、藤原定頼(公任の子)、源朝任(道長の正妻、倫子の兄の子)ら、錚々たる貴公子と浮名を流したことも、「道長の娘だから」という一言で説明されてしまいます。彼女はその後、のちの後冷泉天皇の乳母になり、従三位という中下級貴族ではありえないほどの大出世を遂げた。その理由についても、同様に得心されてしまうでしょう。

 多数のフィクションを重ねても、最終的に歴史への理解をうながす結果になれば、それは意義があるフィクションだと思います。しかし、数々のできごとが史実と異なって見えてしまうようなフィクションを採用すると、視聴者は一元的な見方を強制されて思考停止し、歴史への誤解を深めてしまいます。

もはや歴史の真相(深層)は見えない

 脚本家の大石静さんは、6月30日付の朝日新聞朝刊で、こう発言していた。

《だから、(註・道長とまひろは)幼少期に知り合い、淡い恋心を抱くようにした。加えて2人の宿命が絡み合うように、「愛した人は、母のかたきの弟だった」というエピソードで補強しました。繰り返しますが、時代考証の先生のチェックを経たうえです。まひろと三郎(後の道長)の家は離れておらず、「幼少時代に知り合っていたこともあり得ない話ではない」と、お墨付きをいただいた》

 しかし、「時代考証の先生のチェックを得た」「お墨付きをいただいた」と強調されていますが、同じ都にいた以上、幼いころから会っていた可能性は否定しきれないし、恋愛関係になった可能性も、子供ができてしまった可能性も、ゼロとは言い切れないでしょう。だから時代考証の倉本一宏氏も、「あり得ない話ではない」としかいいようがなかったと思うのですが、それに対して「お墨付きをいただいた」と踏み込んで語られてしまって、戸惑っておられるのではないでしょうか。

 どうして紫式部は『源氏物語』を書いたのか。たとえば、そんな好奇心から『光る君へ』を観ていた視聴者は多いと思います。しかし、道長と恋愛した挙句、子供までもうけたという展開になると、もはや歴史の真相(深層)は見えません。それどころか、あらぬ方向に誘導されてしまいます。多くの視聴者の歴史観を左右するドラマだということを、脚本家はもう少し頭に置いてほしい。そう願います。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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