「最後まで勝負を捨てない」初代貴ノ花の驚異的な“粘り腰” 原点は兄・二子山親方の「凄絶スパルタ指導」にあった(小林信也)

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行司泣かせの力士

 引退後に現役時代の心情、相撲部屋の殺気立った雰囲気を貴ノ花が回想している。

「人間的な感覚を一切取り去れ、動物的な感覚で、相手を殺すような感覚で相撲を取れ。それが親方の指導でした。実際、あの時代の相撲はそうでなければ勝てなかった」

 淡々と語る表情に、当時の角界の恐ろしいほどの厳しさと迫力がにじみ出る。

「息抜きはなかったですね。毎日必死になって生きていく。一日が長い、10分、1分、分刻みですよね。そのくらい一日が長く、辛く、夏は暑さ、冬は寒さ、稽古の痛さ、殴られる痛さ、そういうものがすごく辛かった」

 長男である元横綱、3代目若乃花の花田虎上も少年時代をこう語ってくれた。

「家に現役の大関がいた。それが私に大きな影響を与えました。食事をしていても、いつ手が出るか、物が飛んでくるか。それを必死によけるため、予測や対応する動きが身に付いた」

 大関を張る力士の日常はそれほど殺気に満ちていた。

 最後まで勝負を捨てない貴ノ花は、「行司泣かせの力士」とも呼ばれた。高校生だった私も鮮烈に覚えているのが、横綱・北の富士戦の「かばい手」(相手のけがを防ぐための特例)が論争になった一番だ。

 72年1月場所8日目。両者スピード豊かな攻防を展開した目まぐるしい流れの中、土俵中央で北の富士が外掛けを繰り出した。貴ノ花は背中から土俵に倒れ込みそうになる。が、背中が地面に着く寸前まで貴ノ花は懸命に粘り、簡単には落ちなかった。そのため、北の富士は貴ノ花の上体に完全に乗っかる形で一瞬宙に浮いた。危険を感じたのだろう、北の富士は貴ノ花の背が着く前に右手を土俵に伸ばし、衝撃を緩和した。

 態勢的には北の富士有利。だが行司は先に手を着いた北の富士を負けとし、貴ノ花に軍配を上げた。場内は騒然とした。物言いがつき、長い協議が行われた。結果、審判団は北の富士のかばい手を認め、行司軍配差し違えで貴ノ花は敗者となった。

 後に制作されたドキュメンタリー番組で、北の富士(当時九重親方)が正直な感想を述べている。

「絶対自信はあったんです。これはかばい手だと。それがやっぱりね、後々テレビを見たり写真見たりしてみると、貴ノ花の足はまだ生きてるんですよ。足首が返らずに、爪先で立っているんでね。だから自信が揺らいできているんです」

 動画を見返しても、貴ノ花の体はまだ生きている、懸命の反撃を続けている。いわばうっちゃりを打つように北の富士を肩越しに投げ出そうとしている……。背中は土俵に着く寸前だが、勝負は捨てていない、それが貴ノ花の相撲だった。

「首がメリメリって」

 大関になって15場所目の75年3月、優勝決定戦で横綱・北の湖を倒し初優勝。それも忘れられない思い出だが、貴ノ花の覚醒の瞬間は、横綱・大鵬に初めて勝った一番かもしれない。

「十両になったころ大阪の準場所で大鵬さんに『来い』と言われてぶつかったら、首がメリメリって鳴った。物すごく強い、怖い印象が頭から離れなかった」

 70年9月、新小結として初めて対戦、1分を超える長い相撲の末に貴ノ花が寄り切りで大鵬を破った。

「必死に必死にいって、勝ったときはただぼーっとしていた。勝負の後、走って行って『ごっつぁんです』と言ったら、『強くなったなあ、がんばれよー』と言ってもらった。すごく悔しそうでした」

 そう言って笑う貴ノ花の表情が初めて穏やかで、なぜかホッとした。

小林信也(こばやしのぶや)
スポーツライター。1956年新潟県長岡市生まれ。高校まで野球部で投手。慶應大学法学部卒。大学ではフリスビーに熱中し、日本代表として世界選手権出場。ディスクゴルフ日本選手権優勝。「ナンバー」編集部等を経て独立。『高校野球が危ない!』『長嶋茂雄 永遠伝説』など著書多数。

週刊新潮 2024年7月18日号掲載

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