「最後まで勝負を捨てない」初代貴ノ花の驚異的な“粘り腰” 原点は兄・二子山親方の「凄絶スパルタ指導」にあった(小林信也)

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「角界のプリンス」初代貴ノ花は、昭和を代表する人気大関だった。筋肉質、ぜい肉のない細身の体。身長は183センチ、関取になった時、体重は100キロに満たなかったという。それでいて巨漢の高見山を豪快に投げ飛ばす、土俵際で起死回生のうっちゃりを決める。細身ながら胸のすく勝ちっぷり、驚異的な粘り腰はファンの胸を熱く躍らせた。

 最初の触れ込みは「元横綱若乃花の弟」だった。22歳上の兄・二子山親方は幼い頃に父を亡くした貴ノ花にとって父親代わりだった。

「競泳の元五輪候補」という実績も新鮮だった。杉並区立東田中学時代、100メートルバタフライで中学新記録を樹立。1968年メキシコ五輪での活躍が期待された。が、中学卒業を前に相撲への転身を決めた。水泳の大会が終わった10月ごろ、母親から思いがけない話をされた。

「水泳に夢中なのに心苦しいけれど、アマチュアの水泳より、あなたの今後を考えたらプロになったらどうかねえ。裸一貫でやれるお相撲で、二子山親方の手助けをしてやってほしい」

 最初は聞く耳を持たなかった。しかし、

「高校に行くなら自分の力で行ってちょうだい」

 母親に追い打ちをかけられ、元々好きだった相撲への挑戦を決意した。入門の時、二子山親方は言った。

「これからは父でも兄でもない。敵だと思え」

 当時の指導は問答無用の激しさだった。新入幕のころ、二日酔いで稽古を休もうとした貴ノ花(当時は花田)を親方が青竹でたたき起こし、布団が真っ赤に染まったという伝説もある。

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