「脳外科の教授」だった父から衝撃の一言 元日テレ・魚住りえアナ、「自己否定」が激しい性格に

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3歳から16歳までピアノ

第3回【数字が減っていく通帳を見て「家賃、払えるかな…」 元日テレ・魚住りえアナが明かす「フリー」の厳しさ】からの続き

 元日本テレビアナウンサーで、現在はフリーアナウンサーとして活動する魚住りえさん(52)。3年前に他界した父は、広島大学医学部の脳神経外科教授だった。厳格な家庭で育てられ、自己肯定感は低かったという。その魚住さんが、人生で初めて「本当によかった」と自分で自分をほめてあげたことがあったという。(全4回の第4回)

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 ピアノを3歳から16歳までやっていました。母が音大のピアノ科を出たのですが、ピアニストになれずに結婚したので、姉と私に夢を託していました。姉は実際、ピアニストになりました。

 私は姉ほど才能もなく下手くそでしたから、このままピアノを弾いていても自信をなくすばかりで、未来が見えないと思いました。そうはいっても音楽は好きでしたから、喪失感が大きく、何か代わりに没頭するものが欲しかった。

 そんな時、朗読に出逢いました。それまで、寝食を忘れてピアノを突き詰めてやってきた集中力が、結果的に朗読の習得に生きたのだと思います。実際、音楽の演奏と朗読は、とても似ているんですよ。

 大学病院の脳外科の教授だった父には、幼いころから大きな影響を受けました。3年前に亡くなりましたが、医師としては、非常に優れていて素晴らしい人だったと思います。患者さんからは「神様」と言われていたそうです。

 ただ、その神様は、家に帰ってくると鬼のように厳しい面もありました。

 脳の手術は1ミリでも間違えると死に直結することもありますから、きっといつも気持ちが張り詰めていたと思います。

 父が自宅に帰ってくる前には、お箸を箸置きの上に、先まできちっと揃えて置き(1ミリのずれがあってもならない)お皿もびしっと並べておかないといけませんでした。昭和時代の「昔の親父」というイメージです。帰ってきたら、玄関でスリッパをそろえて、家族みんなで出迎えて「お帰りなさい」と頭を下げていました。

「自由に生きて欲しい」と諭したかった

 家ではひっきりなしにピアノの音が鳴り響いていましたので、父は家で休みたいのに本当にうるさかったと思います。姉か私か、ピアノを弾くのは一人にして欲しいと考えたようです。

 ある時、父が練習している私の側によってきて「おまえはおねえちゃんより下手だ。どうがんばっても才能がないのだから、もうピアノはやめなさい」と言われました。ただでさえ姉妹でいつも比べられていましたから、父からそんな風に直球で言われ、「おまえはだめな人間だ」と言われたようで、愕然としました。

 後に、父に真意の程を聞いてみたのですが、「りえには他に向いていることがあるはずだから、違う分野にも目を向けて欲しい、母親のいいなりにならなくていい、自由に生きて欲しい」と諭したかったそうです。

 私を自由にしてあげたいという、父なりの優しさでした。

 ただ小さい頃、どんなに努力を重ねてもピアノで結果が出なかったことで「自己否定」が激しい性格になりました。学校の成績も良くなかった。端から見ると自信満々のように見えるかもしれませんが、全く自分に自信がありませんでした。

 そんな私でも、初めて「生まれてきて良かった」と思う瞬間がありました。43歳の時に出版した著書『たった1日で声まで良くなる話し方の教科書』が売れた時です。

 当時、担当した編集者の方から「前世で何かいいことしたんですか? 1万部売れればいいといわれているのに、今どきこんなに本が売れることはないですよ」と笑いながら言われたのを覚えています。その時は一気に増刷を重ねて7万部ぐらい売れました。そこから、やっと自分で食べていける見通しが立ったんです。人生の一番のターニングポイントでした。

 この時は、日テレ時代にはなかった「充実感」がありました。テレビの仕事をほとんどやめて、自分のスキル一本で勝負した“背水の陣”で、本が売れたんです。本の中に書いてあることは、全て自分の中から生まれてきたもので、自身の経験と実践からくる私のメソッドです。

 それを書いた本が売れたことで、やっと自分自身を認められるようになりました。40代になって身を削って仕事をして苦労して、初めて味わった達成感です。

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