作家・団鬼六の生き方 国民的俳優との意外な接点…「仕事でも恋愛においてもただひたすら狂ってみたい」

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 人生は一瞬の夢のようなもの。仕事や遊びに没頭しろ――この言葉通り、最期の時を迎えるまで一心不乱に生き抜いた作家・団鬼六さん(1931~2011)が今週の主人公です。実に多彩な交友があったという団さん。なんと、あの国民的俳優との接点もあったそうです。朝日新聞の編集委員・小泉信一さんが様々なジャンルで活躍した人たちの人生の幕引きを前に抱いた諦念、無常観を探る連載「メメント・モリな人たち」。偉大な作家の人生迫ります。

「一期は夢よ、ただ狂え」

 持病の前立腺がんが再発し、今年1月に「生きていられるのも、あと2年ぐらい」と医師に言われてから、「希望」と「絶望」がごっちゃまぜになった日々を過ごしている。原稿を書く気になかなかなれず、オロオロ過ごすこともある。

 だが、「花と蛇」など背徳の世界を描いた官能小説で知られた作家・団鬼六さん(本名・黒岩幸彦)は、最期まで一心不乱に人生を邁進していた。「一期は夢よ、ただ狂え」という言葉を団さんは愛した。

 もともとは室町時代後期に成立した歌謡集「閑吟集」にある言葉だ。原文は「何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂え」。編者は未詳で、現代風に訳すとこんな感じになる。

「なんだ、真面目くさって。人生なんて一瞬の夢のようなものよ。仕事や遊びに我を忘れ没頭しろ」

 もちろん中世のこの時代、庶民は食うや食わずの生活を強いられていたに違いない。働けど働けど我が暮らし楽にならざる、を痛感していただろう。だからこそ「一期は夢よ、ただ狂え」に憧れていたのである。

 放蕩者だった団さんの父も、この言葉をよく口にしていた。愛人をつくったりギャンブルにのめりこんだりと、デカダンな生活をふんぞり返って送っていたのだろう。

 団さんは父を思い起こしつつ、「仕事でも恋愛においてもただひたすら狂ってみたいと思っている」とインタビューに答えている(朝日新聞:2002年9月11日夕刊「一語一会」)。

 重たい腎機能障害となり、腎不全と診断されながら人工(血液)透析を一時は拒絶し、食道がんの手術も断った。延命治療は望まず、美食、アルコール、たばこ、夜の飲食店通いを満喫した。

 凡人の私も「ええい、この際だから狂ってみるか」と思うこともなくはない。前立腺がんで男性機能は失われても恋愛はできるだろうし、人生の醍醐味を味わうための旅行に出かけるのもいいだろう。

 でも、骨に転移してしまっており、体のあちこちが痛い。団さんのような見事な生き方はとうてい難しく、最初に書いたようにめめしくジタバタ生きているのが現実である。

名作「真剣師 小池重明」

 今回の主人公、団さんについて話を戻す。亡くなったのは2011年5月6日。胸部食道がんのため79歳で死去した。簡単に経歴を紹介する。

 生まれは滋賀県彦根市。街中には「金城館」という映画館があり、その経営者の長男として生まれた。映画館が遊び場でもあった。関西学院大を卒業後、雑誌の懸賞小説や新人賞に入賞した。バーの経営や相場取引に手を出して失敗。中学の英語教師も務め、何とか生計を維持していたが、SMを題材にした「花と蛇」を雑誌「奇譚クラブ」に連載して評判になり、著作に専念する。

 1970年代、一躍人気作家に。作品の多くは日活などで映画化され、自身でもピンク映画を制作した。将棋好きでも知られ、89年には雑誌「将棋ジャーナル」を買い取って発行した。

 たしかに、団さんには「真剣師 小池重明」など将棋の世界を扱った作品が多い。賭け将棋で生計を立て「最後の真剣師」「新宿の殺し屋」と呼ばれた小池重明さん(1947~1992)に関しては、実際に50番以上対局し、実際の人柄を取材したらしい。

 肝硬変で死期の迫った小池さんが、病院の入院費用などを立て替えてくれた団さんにお礼として将棋の駒を寄贈したこともあった。柘植でできた盛り上げ駒で、20万円以上の価値があったという。

 作品の世界観が強烈だったためか、団さんには誤解も多かった。雑誌の撮影のため真っ赤なロウソクと荒縄を差し出すと、「僕は変態じゃない。小説は食うために書いているだけだ」という答えが返ってきたという。

 さまざまな職業を転々とした団さんは、ある意味、商売としての軟文学で大成功を収めたと言っていいだろう。5億円の豪邸が競売にかけられ、人生のどん底も見た。

 一方、社会の軌道や世間体、平凡な価値観から外れたピンク映画の出演者やヤクザ者、相場師、賭け将棋指しといった人たちが、世間の底辺で懸命に生きていく哀歓や矛盾を愛情を込めていくつもの随筆に描いてきた。

 妻・安紀子さん(79)に対しても理解があった。子育てをしつつ歌手になる夢を抱いていた安紀子さん。1999年、「乳房」(作詞・花井紫、作曲・四方章人)でデビュー。夫の代表作「花と蛇」を題材にした楽曲だった。当時54歳。新人歌手としては遅めのスタートだったが、背中を押したのが団さんだった。しっとりとした声と妖艶なムードが話題となった。2人は憎まれ口を叩き合いながらも最後は共に笑う間柄だったという。

 映画「花と蛇」「黒薔薇夫人」などの日活作品で70年代に一世を風靡した俳優・谷ナオミさん(75)も懐かしい。当時、出身地の熊本でラウンジを経営していた谷さんに会ったのは11年前の2013年だった。

 18歳のとき九州から上京。モデルとしてスカウトされ映画界に。文豪・谷崎潤一郎(1886~1965)の「谷」と小説「痴人の愛」の主人公・ナオミから名前をとり、「SMの女王」と呼ばれた。無理無体な緊縛シーンから立ちのぼってくる香気。男の傍らで快楽にむせびながら目の奥にはどこか恥じらいがあった。そんな谷さんの演技を高く評価していた団さんは「苦悩を洗い落としたような人間的な美しさを感じた」と語っていた。

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