「何でも反対」イメージで蓮舫氏は2位にもなれず リーダーにとって「ノーは切り札」でなければならない
「何でも反対」というイメージ
東京都知事選挙で、当初、現職の小池百合子氏の有力な対抗馬とされていたのは、元立憲民主党の蓮舫氏だった。直近の首長選挙などで自民党が次々負けていたこともあり、知名度の高い彼女ならば現職を打ち破ることも可能では、という期待感を集めていたのである。ところが結果は3位に終わってしまい、その原因については識者や各メディアがさまざまな指摘をしている。
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「共産党との共闘が逆効果だった」「生理的に嫌われていた」「2位の石丸氏の勢いがすごかったのだ」等々。
ただ、蓮舫氏やその周辺に対して、今回に限らずよく指摘されるのが、「批判ばかりしている」というものだろう。「野党は何でも反対ばかりで、対案がろくにない。いい気なものだ」という類の見方は根強い。
本人もそのあたりは承知していたらしく、今回、「小池都政の良いところは受け継ぐ」といった旨の発言もしていたのだが、そうしたメッセージはほとんど浸透せず、「反対ばかり」というイメージを払拭するには至らなかった模様である。
なぜ「反対ばかり」は嫌われるのだろうか。現職の知事に挑戦するということは、従来のやり方に何らかの問題があるという認識を持っていることになる。しかも「大体オッケー」というスタンスならば立候補する必要がない。「ほとんどがNG」だからこそ立候補するのだ。ならば、「反対ばかり」なのは正解のはず。
挑戦者とは「ダメ出し」をする存在。そんなことは有権者も分っている。それでもなお、蓮舫氏的なスタンスは共感を集めづらい。
「ノーは切り札」でなければならない
証券会社勤務を経て、メーカーの経営再建に携わった経験を持つ桃野泰徳さんは、著書『なぜこんな人が上司なのか』で、理想的なリーダー像、ダメなリーダー像を論じている。桃野さんによれば、日本ではほとんどの組織で、まともなリーダー教育がなされておらず、それゆえにリーダーのあるべき姿に関する共通認識を持てない組織が多いのだ、という。そして、望ましいリーダーの振る舞いとして挙げているのが、最終的な責任は自分で取ると言い、部下の裁量を認めるというものだ。
これは言い換えれば、「ダメ出し」を極力減らす姿勢だとも言える。こうしたリーダー、上司のほうが部下はやる気になる、周囲が盛り上がるというのは分かりやすい話である。しかし何でも下の言いなりでは困る。また適切なダメ出しが必要なのは言うまでもない。
このあたりのバランスをどう考えればいいのか。改めて桃野さんに聞いてみた。
「そうですね。東京都知事選挙については、私は政策の優劣についてどうこう言う立場ではありません。しかし、なぜ“反対”を連発する人が共感を集めないのかというのは、リーダー論を考えるうえではとても重要な視点だと思います。
私がリーダー論を考えるにあたり、ベースの一つとしているのは、過去の偉人に加えて、現役の自衛隊の幹部、元幹部の方々のお話です。というのも、一般企業と異なり、幹部候補生らには長期間にわたって、体系だった研修を行っており、リーダーシップについてのノウハウが蓄積されているからです。
なかでも私が尊敬している幹部の方から聞いて、とても印象に残っている話があります。それは、“できるリーダーはノーを切り札にするが、ダメなリーダーはイエスを切り札にする”という教訓でした」
どういうことか。
「部下をやる気にさせるリーダーは、“責任は私が取るから、やってみろ”が基本です。いわばイエスが自然体なんです。
一方で、ダメなリーダーは、できない理由、リスク、あら捜しをしてダメ出しのほうに終始する。ノーが部下にマウントを取るための武器になっている、と言ってもいいでしょう。そしてノーを突きつけ続け、最後の切り札としてやっとイエスを出す。こんな人の下で働きたいと思う人はいません」
会社勤めのある方ならば、一人くらいは思い浮かぶ顔があるかもしれない。新しい企画、提案に対して、「失敗したらどうする」「責任を取れるのか」といったマイナス面ばかりに目を向けて、ノーを言うのが仕事だと考えているタイプの上司である。
「もちろん、本当にダメなものはダメだと言うことが大切なのは間違いありません。しかし蓮舫さんや、2位になった石丸伸二さんのその後の言動を見て、“ノーで人をコントロールしようとする姿勢”に嫌悪感を持った人は、相当多かったのではないでしょうか。それだけ、そのような上司・同僚に苦しんでいる人が多いからでしょう。いわゆる“石丸構文”はその典型です。リーダーを目指す人は、どれだけイエスで人を鼓舞できるかを考えるほうがいいのです」
実際には過去の都知事選において、多くの当選者が何らかの「ノー」を訴えてきたのは事実。青島幸男氏は「世界都市博」に「ノー」を突き付けた。都政そのものではないが、石原慎太郎元都知事は、アメリカに「ノー」を言える人物として人気を博した。要は、ノーが説得力を持ち、共感を得ると大きな風が吹くということだろうか。
「そういう面はあると思います。特に日本は、マスコミに象徴されるように、ゆがんだ批判社会という面があるように感じます。イエスを認めあうより、ノーを突きつけたほうが得をする社会構造と言ってもよいでしょう。そうなると誰もリスクを取ろうとしなくなります。“何でも反対”というイメージで蓮舫さんが失速したのは、そんな息苦しい閉塞感に対する有権者の拒否反応であったのかもしれません」
少なくとも「ノーと言える自分」に酔っているような人が人望を得ないというのは、政治でも組織でも共通してそうだ。「イエスで人をコントロール」できるような人物、つまり肯定的な言葉で人心を動かせるような政治家が現れれば、歴史に名を残すような存在となるのかもしれない。