安室奈美恵、SPEED、満島ひかり…「沖縄スター」を世に送り出したマキノ正幸さん死去 「才能を発掘する天才」からの転落と“復活”

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 沖縄アクターズスクールをマキノ正幸さんが創業したのは1983年のことだ。やがて安室奈美恵、MAX、SPEED、知念里奈、DA PUMP、満島ひかりらを次々に送り出した。

 マキノさんはこのスクールを歌手やタレントの養成所ではなく、子供たちが本当に好きなことを見つけて自分の才能に気付く場所とし、自身の役目はそれを助けるに過ぎない、と語っていた

沖縄ブーム

 芸能レポーターの石川敏男さんは振り返る。

「沖縄にスターの卵がいると言われても、90年代の半ばごろまで東京から出かけて会いに行く人はまずいなかった。マキノさんは沖縄にいる良い素材を発見して磨き、東京の芸能プロに紹介するやり方をいち早く考え出したのです。安室の大ヒットでこの流れは確立、沖縄ブームが起きた」

 元芸能レポーターの藤田恵子さんも言う。

「アクターズスクール自体も広く関心を集めました。沖縄にこんな才能がいると発信できたことに意味があった。沖縄を地盤にした発想で、マキノさんは目のつけどころが良かった」

祖父は「日本映画の父」

 当のマキノさんは、歌手や俳優でも教育者でもない。

 41年、京都の生まれ。父のマキノ雅弘は娯楽映画の名監督、母の轟夕起子は宝塚歌劇団出身の人気女優。俳優の長門裕之、津川雅彦は、いとこにあたる。祖父の牧野省三は「日本映画の父」と呼ばれる存在だ。

 映画評論家の白井佳夫さんは言う。

「正幸さんは映画人ではありませんが、理論より実践、新しい方法を試しては観客を喜ばせ、スターを育て、出資者を儲けさせる点で祖父や父とそっくりです」

 裕福で遊び人に育つ。青山学院大学を卒業し、六本木で会員制のジャズクラブを経営。母の遺産を元手に競馬の馬主に。71年、沖縄へ渡ったのはアメリカの雰囲気に憧れたから。ナイトクラブを開いて成功させた。

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