“妻”はふたり、それぞれに子供も…「自然とそうなっちゃった」 46歳夫が「二重家庭」を築きあげるまで
世界にはいろんな人がいて…
親には親の人生があると思っていたから、そんな家族のありように不満を覚えたこともない。母も継父も、とても明るかったのでコンプレックスを抱くこともなかった。
「大学時代はバックパッカーとしてあちこち回りました。アルバイトをしては旅に出る。アジアの奥地とかアフリカとか、危険だと思われるようなところにばかり行っていた。人の暮らしを見たかったんです。世界にはいろんな人がいて、いろんな暮らしをしている。一夫一婦制ばかりじゃないこともよくわかった。『何でもあり』みたいに育ってきたので、自分の価値観が間違っていないと思いたかったのかもしれません」
大学には6年いて、ようやく卒業。大手有名企業に入るつもりはなかった。英語とスペイン語ができたので小さな貿易会社に「ひっかかった」という。20代はほとんど「フーテンの寅さん」のようにトランクひとつで世界を回った。
「大手商社みたいにかっこよくはないですよ。現地の小さな事務所を拠点にして、あちこち旅する。今ほどネットもつながりやすくはなかったし、いろいろ苦労はしましたが、思い返せば楽しかった」
妹から紹介された茉利奈さん
30代半ばで母を亡くした。出張中の身で臨終には間に合わなかったが、葬式を1日延ばしてもらってなんとか駆けつけた。継父が「きみのことをいつも心配していたよ」と声をかけてくれたとき、彼は「一生分、泣いた」という。
心身をすり減らすようにして働いてきたのがたたったのか、そのころ体調を崩し、日本で仕事を続けることになった。
「僕は友人や職場の人間関係には恵まれていました。仲良しのおせっかいの友人や、職場の先輩が『おまえに今必要なのは、全面的に信頼しあえる女性との関係だ』といろいろな人を紹介してくれたりして。結婚という言葉が初めてリアルに思えた。思えば育った家庭は悪くなかった。なぜか家族以外の人間がそこでごはんを食べていたり、母や継父の友人が遊びに来ていたりと騒がしい家庭だったけど、それだからこそ親の違うきょうだい4人が大人たちに揉まれながら仲良くなっていたのかもしれないと思えたんです」
継父の連れ子ふたりは男女だったがそれぞれ独立、貞則さんと同い年の男の子はすでに地元で結婚して子どもがいた。ふたつ下の妹は仕事で海外にいた。この妹とは妙に気が合って、海外で会ったこともある。母と継父の間の子も女の子で7歳年下。貞則さんもかわいがっていた。
このいちばん下の妹 は上京して働いていた。ある日、食事をする約束をし、そこに一緒に来たのが茉利奈さんだ。妹の職場の先輩だという。
「素敵な女性でした。見合いみたいに設定された状況で出会うのは嫌だったけど、それをも感じさせないくらいチャーミングで聞き上手。でも自分の言いたいことははっきりと言う。こういう人とつきあいたいと思いました」
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