「オウム4人逮捕は公安警察のプロパガンダ」警察庁長官狙撃事件、スナイパーが公安警察に突き付けた挑戦状

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 5月22日、中村泰(ひろし)受刑者(94)が収容先の東日本成人矯正医療センター(東京都昭島市)で死亡した。別の事件で無期懲役中だった中村受刑者は、1995年3月に発生した重大事件への関与を“自白”したことでも知られる。2010年3月末に公訴時効を迎えて未解決事件となった「国松事件」こと、国松孝次・元警察庁長官の狙撃事件だ。

 この国松事件について、中村受刑者は「新潮45」に2本の手記を寄せていた。1本目の手記「国松長官狙撃犯と私」は銃撃犯の行動や心理を“推理”する内容。今回公開する2本目の手記は、捜査をめぐる警視庁公安部と警察庁刑事部、大阪府警の“暗闘”などがテーマである。なおその掲載にあたり、当時の編集者は一切手を加えていない。

(全3回の第1回:「新潮45」2005年3月号「総力特集 吉と凶・衝撃の七大独占告白手記 国松長官狙撃事件『スナイパー』から『公安警察』への挑戦状」より。文中の「被告」表記、年齢、役職名、団体名、捜査状況等は掲載当時のものです)

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 中村泰被告(74)は、本誌2004年4月号に「国松長官狙撃犯と私」と題する手記を寄せた。その約3カ月後の7月7日、「国松孝次・警察庁長官狙撃事件」の捜査は突如、急展開した。

 警視庁公安部が、国松氏に対する殺人未遂容疑などで、オウム真理教(現アーレフ)の元信者ら4人を逮捕したのである。事件が発生した1995年3月30日から9年余。新聞は号外まで出した。

 逮捕者には、オウム元在家信者の小杉敏行元警視庁巡査長が含まれていた。事件発生の約1年後に「自分が撃った」と明かしたものの、その後の捜査で供述の信用性が疑われ、東京地検がいったん立件を断念した人物である。その小杉元巡査長を再び引っ張り出してきて、「逃走支援役」として逮捕したのだ。

 しかし、逮捕後の小杉元巡査長の供述は二転三転。他の逮捕者は皆、容疑を否認した。結局、逮捕の21日後に全員が釈放され、その後、嫌疑不十分で不起訴処分となった。終わってみれば、事件を巡る闇を濃くしただけの結果になったのである。

 こうした騒動を横目で眺めながら、地道に捜査を続けていた連中がいる。警視庁刑事部捜査一課の刑事達だ。彼らが「狙撃事件」の“容疑者”と目している人物。それが、今回、再び本誌に手記を寄せた中村被告である。

 中村被告は東大教養学部理科二類を中退、警察官射殺事件を起こして逮捕され、服役したという経歴の持ち主だ。昭和51年に出所したが、平成14年11月、名古屋市内にある銀行の支店を襲撃。現金輸送車の警備員に拳銃を発砲し、重傷を負わせて再び逮捕された。

 その捜査の過程で、アジトから「国松事件」を“自白”するような内容の散文詩が発見され、銀行の貸し金庫に大量の銃器を隠し持っていたことが判明した。こうして、中村被告は「容疑者」として急浮上。銃刀法違反容疑で警視庁に逮捕された後、別の銀行襲撃事件で大阪府警に再逮捕された。そのため、現在、身柄は大阪拘置所にあるが、警視庁捜査一課の専従班は今も中村被告の周辺捜査を続けている。

 獄中から寄せた以下の手記で、中村被告は警視庁公安部による今回の逮捕劇を「関係者」の立場から検証。さらに、これまで報じられたことのない貸し金庫の「開扉記録」を示し、「国松事件」と自らについての“重大な事実”を明かした――。

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