「メダルを取りに行く」石川祐希が堂々“宣言”のバレー日本男子は52年ぶりの快挙を成し遂げられるか 「女子との格差」で味わった屈辱から金メダルまでの秘話

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タクシー運転手の衝撃発言

 日本代表の末席に迎えられ、猫田は64年東京五輪に出場した。当時は2人セッターが主流、猫田は補助セッターと呼ばれる2番手役だった。

 東京五輪では“東洋の魔女”女子バレー日本代表が 金メダルを取り、日本中に大きな歓喜をもたらした。決勝のソ連戦のテレビ視聴率は66.8パーセント。いまもスポーツ中継史上最高の数字を記録している。

 同じ東京五輪で男子バレーも健闘した。10カ国総当たり戦、ハンガリー、チェコスロバキアには苦杯をなめたが、優勝したソ連に土をつけ、強豪ルーマニア、ブルガリアにも勝った。7勝2敗で堂々の銅メダル、立派な快挙だった。

 しかし、この銅メダルが後になって複雑で苦い記憶に彩られる。

 コーチだった松平康隆は、市川崑監督の記録映画が完成したとき勇んで見に行った。ところが、170分に及ぶ映画に自分たちは一度も登場しなかった。女子バレーは主役の扱いだった。

(銅メダルでは相手にされない。絶対に金メダルを取る!)

 松平が固く心に誓った瞬間だった。

 同じ頃、チームメイトとタクシーに乗った猫田も似た経験をする。乗り込んだ大きな男たちを見て運転手が「何をやっているのか」と聞いた。「全日本の男子バレーボール選手です」と答えると、運転手は驚いた。

「男子もバレーボールをやっていたのですか」

 猫田らは言葉を失った。女子は国民的存在だが、銅メダルの自分たちはほとんど知られていなかった。

五輪前年に骨折

 期待通りエースセッターに成長した猫田は、68年メキシコ五輪でチームを銀メダルに導いた。残るは金メダルしかない。

「勝ったらアタッカーの手柄。負けたらセッターの責任」、猫田は割に合わない役柄を好んで受け入れた。自分は目立たなくていい。南将之、大古誠司、森田淳悟、横田忠義らに打ちやすいトスを上げる。多彩なクイック、時間差攻撃は日本の武器になった。さらに森田は“一人時間差”も完成させた。すべては猫田のトスがあってこそだ。

 ところが、猫田は五輪前年の9月、ゲーム中にフェイントを拾おうとして他の2選手と衝突、右腕を複雑骨折してしまう。懸命のリハビリを経て、試合に復帰したのは五輪開幕の2カ月前だった。筋力が落ちた上に、右腕が後ろに反り返らない。顔の前でトスを上げる動作はできても、バックトスに支障が出る。そこで猫田は、これを逆手に取って新たな武器とした。ネットに背を向けてトスを上げる。するとその瞬間が見えないため、相手の対応が遅れる。

 松平監督はやむを得ず、ミュンヘン五輪を若いセッター嶋岡健治との併用で戦った。大勝負は優勝決定戦(対東ドイツ戦)の一つ前、準決勝のブルガリア戦だった。2セットを奪われ、2セット奪い返して第5セットに入った。3対9でリードを許す。絶体絶命の場面で猫田が投入された。猫田はトスの巧さでブルガリアを翻弄、3連続得点を奪う。さらに勢いに乗った日本は15対12で大逆転を演じた。その劇的勝利は、“ミュンヘンの奇跡”と呼ばれている。

 ***

 パリを舞台に“ミュンヘンの奇跡”の再来を願う国民は多いことだろう。

小林信也(こばやし・のぶや)
1956年新潟県長岡市生まれ。高校まで野球部で投手。慶應大学法学部卒。「ナンバー」編集部等を経て独立。『長島茂雄 夢をかなえたホームラン』『高校野球が危ない!』など著書多数。

撮影・本田武士

デイリー新潮編集部

週刊新潮 2024年7月18日号掲載

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